パズル (1)


『…………』
 遠くで、声が聞こえる。
 なんと言っているのか、わからない。
 頭が働かない。身体も動かない。
 ただ、その声の輪郭だけが水のように流れ落ち、渦を巻き───、やがて解け、浸透していった。


 俺はぼんやりと目を開けた。いや、目が開いたのかどうかもよくわからなかった。
 ……冴子(さえこ)の部屋?
頭に濃いもやがかかっているようで、情報をうまく分析できない。厚いカーテン越しの光にうっすらと浮かび上がる天井と壁の様子で、ここが自分のアパートでないことだけはわかった。俺は付き合っている女の名前を思いながら、身体を起こそうとした。途端、
「……っ!」
頭にわんわんと広がる強烈な衝撃に、思わず息が止まった。全身が鉛のように重く、だるい。まるで自分の身体じゃないみたいだ。
 半端な体勢のまま、しばらく動けずにいたところ、ドアが静かに開いた。
───起きてたんだ」
のろのろと顔を上げる。近づいてくる人影には、見覚えがあった。
「芳野(よしの)さ……!」
声を発した瞬間、また頭に痛みが響き、顔をしかめた。
「だいじょうぶ?」
心配そうな声音にも、返事ができない。俺は性能ガタ落ち中の脳みそで必死に考えた。ここは、冴子の部屋でもないようだ。
「ここ……どこ」
必死でそれだけ絞り出した俺に、芳野さんは驚いたように言った。
「覚えて、ないの?」
「すんませ……」
反射的に出た詫びの言葉も最後まで続けられず、うなだれた俺は、頭痛および目眩と戦った。
 俺こと久坂広海(くさか ひろみ)は、K大工学部の2年生。趣味は草野球とプラモデル製作という、まあ健全な部類の大学生だ。昨晩、野郎ばかりの容赦ないコンパで飲みすぎて(健全?)、記憶が曖昧なまま、現在に至る。激しい頭痛、目眩、倦怠感。そして身体を取り巻く不快なアルコール臭。これは紛れもなく、過去最大級の「二日酔い」だった。
「はい、お水」
一度部屋を出て戻ってきた芳野さんが、水の入ったコップを差し出した。受け取って、一気に飲み干す。
 ……死ぬほどうまい。この世にこんなうまいものがあったのかってくらい、うまい。
「もう一杯、飲む?」
うなずくと、左手に持っていたペットボトルから二杯目を注いでくれた。
 俺が一息ついてから、芳野さんは状況説明を始めた。
「ここはね、僕の住んでるマンション」
芳野さんはうちの大学の図書館で司書をしている。ちょっとしたきっかけで知り合って以来、何度か一緒に昼飯を食べたり、俺の所属する草野球チームの試合を見に来てくれたりしているが、家を訪ねたのは初めてだ。これが「訪ねた」にあたるかどうかは疑問だが。
「昨日、駅の改札を出たら、ヒロくんが座りこんでいてね」
話によると、どうやら俺は昨日、大学前の駅でつぶれて仲間に捨てられたらしい(さすが野郎ばかり)。たまたま電車で出かけていた芳野さんが帰りにそれを見つけ、わざわざ車を出して、ここまで連れてきてくれたんだそうだ。芳野さんは俺のアパートを知らないから、送りようもなかったんだろう。しかし。
「ぜんっぜん、覚えてねぇ……」
駅の記憶はかすかにあって、そこで誰かに声をかけられたような気もする。でも、それが芳野さんだったかどうかは定かでない。そしてその後から今起きるまでの間は、すっかりさっぱり記憶が飛んでいる。車に乗った覚えも、部屋に入った覚えも、ない。確かにしたたか飲んだけど、こんなことは初めてだ。
 その時、同じように「記憶を飛ばした」仲間たちのメモリアルな行動が次々と思い出され───、俺は心底青くなって、おそるおそる、口を開いた。
「俺、なんかやらかしました……?」
一瞬、間があいて、
「いいや、別に」
と返ってきた。でもその一瞬、芳野さんが困ったような顔をしたことに気づいてしまった。
「……やったんすね……」
一層どんよりしてしまった俺に、芳野さんはすこし慌てた様子で、
「いや、ほんとにそんな、たいしたことはしてないから。だからそんな、気にしないで」
慰めるように言ってくれた。あんまりフォローになってない気もするが、いい人だ。
「えっと…それより、今日は野球、ないの?」
 野球? そうか、昨日が土曜だったから、今日は日曜か。
社会人が中心の草野球は、日曜に活動することがほとんどだ。だが、今日は別に試合も練習も入っていない。というか、入っていたらここまで飲んでない。と、思う。
「無いっす」
「それならよかった。ところで、僕はこれから出勤なんだけど」
「え」
言われてみれば、芳野さんはYシャツにネクタイ姿。しまった、今日は日曜出勤の日だったのか!
「す、すんません、すぐ帰り……」
立ち上がろうとして急いで身体を起こした時、
「〜〜〜〜!」
頭を寺の鐘代わりにどつかれたような痛みが響いて、また動けなくなってしまった。
「ああ、無理しないで。気分が良くなるまでそこで休んでいればいいよ。合鍵ここに置くから、出る時に掛けてドアポストに入れておいて」
 結局、芳野さんのお言葉に甘えることにした。というか、甘えざるを得なかった。玄関のドアが閉まる音を遠くに聞きながら、そこで初めて俺は、自分がベッドに寝ていることに気づいた。けっこう広いベッドだが、男二人で寝るのはさすがに窮屈だろう。追い出された芳野さんはいったいどこで寝たのか……嗚呼。
「さいあく……」
襲い来る不快感と自己嫌悪の波にもまれつつ、俺はもう一度横になり、目を閉じた。