パズル (2)


 俺と芳野さんとの出会いは半年ほど前。まだ俺が一年だった頃の秋にまでさかのぼる。

 その日の昼、俺はレポート作成用の資料を借りに、図書館を訪れていた。うちの図書館は国内有数の蔵書量を誇るとかで、大学のウリの一つになるくらい上等な施設らしいが、読書に興味のない俺はそれまで、こんなふうに必要にかられた場合でないとほとんど寄りつくことはなかった。
 さて、館内に入るためにはエントランスホールにある入館ゲートに身分証を通さなければならない。学生証を入れている財布を取り出そうとジーンズの尻ポケットに手をやった俺は、その手応えのなさに愕然とした。
 財布がない!
慌てて服中のポケットや鞄を探ったが、出てくるのは煙草や小銭や、駅前で押しつけられたポケットティッシュばかり。
「嘘だろ…?」
気持ちが谷底に急降下する。そりゃ一人暮らしのビンボー学生の財布の中身なんてたかがしれてるけど、ビンボーなだけにあるとないとじゃ天と地ほどの差なんだ。どこだろう? どこでなくした? 朝来て、売店でシャーペンの芯を買った時はたしかにあった。それから掲示板を見て、授業に出て、図書館に来て、前のベンチで一服して……
「きみ、久坂くん?」
「はい?」
思いきりあせっている時に名前を呼ばれ、声が半分裏返ってしまった。見ると、グレーのスーツを着た見覚えのない男の人が立っている。学生じゃなさそうだ。
「これを探してるんじゃないの?」
「あ!」
差し出されたのは間違いなく俺の財布だった。俺、谷底から急浮上。
「ありがとうございます! あの、どこに?」
「そこのベンチ。事務局に持っていこうかと思ったけど、中に学生証が入ってたから、先にこっちに来てみたんだ」
 ……えっと?
俺が鈍い反応を返すと、その人は続けた。
「図書館に来たんだったら、これがないと中に入れないでしょう。だから、ひょっとしたらゲート前で困ってるんじゃないかと思って」
 はい、その通りです。
 うう、この人ってば気が利く人なんだ。そいでもって俺、頭わりぃ……。
とほほな気分でいる俺に、その人はふわりと微笑んで、
「僕は芳野侑(よしの ゆう)。ここの職員です」
と、自己紹介してくれた。その笑顔がとても優しい感じがして、俺は芳野さんという人に好感をもった。
「いちおう中身を確認してみてくれる? 足りないと問題だから」
「あ、はい」
拾ってくれた人にそう言ってもらえると調べやすい。確認の結果、問題なし。いい人に見つけてもらえてよかった。もう尻ポケットに入れるのはやめよう。
「ほんとにありがとうございます。あの、何かお礼でも」
「別に、かまわないよ?」
「や、それじゃあ俺の気がすまないんで」
「うーん」
芳野さんはちょっと考えて、
「じゃあ、学食で何かおごってもらおうかな。僕、お昼に行くところだったんだ」
と言った。
「わっかりました! もうA定でもなんでも食っちゃってください!」
財布が戻ってきたことを考えれば、学食でいちばん高い定食でも安いものだ……たぶん。俺がさっと歩き出すと、ちょっと驚いたような声がした。
「図書館の用事が終わってからでいいよ?」
「や、こっちのが大事っすから」
そう答えると、芳野さんはまた笑った。
「久坂くん、学生証とはずいぶん印象が違うね」
「うっ」
そうだ、あの学生証を見られたんだった。見た奴みんなに「前科三犯」とからかわれたほど目つきの凶悪な写真付きの……。

 学食に行く道すがら、芳野さんが文学部のOBで、この春に司書として就職したばかりだと聞いた。去年まで同じ大学生だったはずなのに、とても落ちついた雰囲気の人で、話していると「大人だな」って感じがした。
「久坂、広海くんだったっけ。いい名前だね」
「そっすか?」
ヒロミという名前は、子供の頃、お約束通りに「女みたい」とからかわれて以来、あんまり好きじゃないんだけど。
「うん、いい名前だよ。おおらかで」
面と向かってそんなことを言われたのは初めてで、ちょっと照れくさい。
「ヒロでいいっすから」
「じゃあ、ヒロくん」
気さくで話しやすい芳野さんに、俺はますます好感を持った。
 意外なことに、芳野さんが選んだのはきつねうどんだった。学食でいちばん安いメニューだ。
「遠慮しないでくださいよー」
「いいんだよ、僕うどん好きだから。それに、A定食は僕には多すぎるんだ」
優しい先輩が後輩の財布の中身まで考慮してくれたのかどうかは、定かでない。
 俺が日替わりの目玉ハンバーグ定食を持って席につくと、先に待っていた芳野さんが、
「よく焼けてるねえ、ヒロくん」
と言うので、
「そっすか? 普通だと思うけど」
ハンバーグを二つに割ってみた。すると、くすくすという笑い声が聞こえてきた。
「いや、ハンバーグじゃなくて、ヒロくんが、日焼けしてるなってね……」
 あら。
芳野さんはしばらくおかしそうに笑った後、目をこすりながら顔を上げた。
「ごめん、ちょっとツボに入って。いやね、僕、焼いても赤くなるばっかりだから、うらやましくて」
言われてみると、芳野さんはえらく色が白いというか、色素の薄い人だった。瞳の色も茶色っぽい。だからなんだかやわらかい感じがするのかな。
「ひょっとして、その髪って染めてないんすか?」
「うん、天然。お金かからなくていいねって、よくうらやましがられるよ」
ちょっとウェーブのかかった、栗色の髪。俺はしたことないけど、手間をかけて茶髪にしてる奴から見れば羨望の対象になるのかもしれない。
「でも僕はヒロくんみたいな黒髪に憧れてたんだ。ないものねだりなんだね、結局」
そう言いながら芳野さんはうどんに七味を振りかけた。俺もハンバーグに取りかかった。
「ヒロくん、何かスポーツやってるの?」
「草野球やってるっす」
芳野さんが食べる手を止めた。
「もしかして、ピッチャー?」
「はい」
「よく河川敷でやってない? 紺色のユニフォーム着て」
その言葉に、俺もがつがつ食っていた顔を上げる。
「知ってんですか?」
「見覚えあるなって思ってたんだ」
芳野さんは合点がいったという表情をした。
「あのグラウンド、僕の住んでる所の近くなんだよ。日曜日にときどき見かけるから」
「そうなんすかー。でも、よく俺ってわかりましたね」
「うん。なんだか、目立ってたから。他の人と比べて、動きがスムーズなんだよね。体格もいいし」
あ、誉められてるよ。へへへ。
「リトルリーグの頃からやってたんすよ」
子供の頃から野球が好きで、高校まで野球部に入っていた。大学に来てからは、バイト先の店長に誘われて草野球チームに所属。そんなに強い選手じゃなかったとはいえ、素人もいるチームの中ではハイレベルな方で、入ってすぐにレギュラーのピッチャーを拝命した。
「野球好きなんだ」
「好きっすねー」
野球の話になるとつい顔がほころんでしまう。芳野さんもそんな俺を見て笑っていた。

 そんな風にして俺と芳野さんは知り合った。あの後、一緒に図書館に戻って、資料用の本探しをアドバイスしてもらい、書籍検索端末の上手な使い方なども教えてもらった。芳野さんの「もっと気軽に利用してね」という言葉のおかげで図書館にそれほど抵抗がなくなって、ちょっとだけど行く機会も増えた。それに、一年の後期試験の時は、特に学部共通の一般教養科目については、図書館だけでなく芳野さん個人にもずいぶんお世話になった。
 でも、酒の飲み過ぎでお世話になることがあるとは思わなかった……。