チョコレート効果


今日も僕はチョコを買う。

僕は営業マン。この春入社したばかりの新人だ。
税理・会計事務所向けのシステムソフトを販売している。
先日やっと先輩の同行から卒業し、一人で外回りを始めた。
不況のせいか、はたまた購入対象となる人々の職業柄か、財布の紐はえらく固い。
何度も何度も断られながら電話や飛び込みの営業を続けていた、ある日。
一軒の税理士事務所で、なんとか話を聞いてもらえるところまでこぎつけた。

アポはいつも一時。
最寄駅で電車を降り、今日も僕はチョコを買う。ごく普通の板チョコだ。
事務所の横にある小さな公園のベンチで、それをかじりながら、用意してきた資料に目を通す。
この風変わりな習慣のきっかけは、甘党の上司がくれた一枚の板チョコだった。
何度目かの訪問日。近くで昼食を取ろうとしたが、どこの飲食店も混んでいて、列ができていた。
並ぶ時間も惜しかった僕は、仕方なく鞄に入れっぱなしにしていたそれを昼代わりに食べていった。
するとその日、所長がやっと本格的に興味を示してくれたのだ。
偶然とわかってはいるが、以来、験を担いでこのスタイルを続けている。
『カカオポリフェノールがストレスへの抵抗力を増し、テオブロミンが集中力をアップさせ、糖分が脳に素早いエネルギー補給を行う』
以上は上司によるチョコレート成分の薀蓄。
要するにチョコを食べる時の言い訳なのだが、心なしか効果があるような気もする。

「こんにちは」
「あら、いらっしゃい。いつもご苦労さま」
何度も足を運ぶうち、受付の方とはすっかり顔なじみになってしまった。
「こちらでお待ちくださいね。すぐ参ります」
趣味のいい応接セットの揃った部屋に通される。革張りのソファは座りごこち抜群だ。
「どうも」
ダークスーツを着こなした所長が現れるのは、いつも一時ジャスト。
去年独立して事務所を構えたばかりという彼は、おそらくまだ30代半ばだ。
肩書きの割に若いけれど、いかにも数字に強そうな、理知的な風貌をしている。
「さっそくですが、試用してみた感想を……」
顧客になら頼もしげに映るだろうその姿も、僕にとっては難攻不落の要塞に感じられる。
最初はさんざんだった。
続けざまに発せられる質問の対応に四苦八苦させられたあげく、
『そういうマニュアル的な回答は、いただいたパンフレットを読めばわかります』
と、切って捨てられたのだ。
自分が売っている物を、いかに表面的にしか理解していなかったかを痛感させられた僕は、反省して、猛勉強した。
なんとか自信をもって答えられるようになった今でも、彼の眼鏡が光るたびに、肝が冷える思いをする。
「この機能はどういった場面で有効なのかな」
「こういう処理は無理なんですか。でなきゃ買い換える必要ないですよ」
「もっと手順を簡略化できませんかね」
彼の発言は厳しいが、いつも要求は明確だった。
「それはですね……」
僕はその要求に応えるべく、チョコで活性化されたはずの頭をフル回転させる。
「では、再度検討してまた参ります」
「よろしくお願いします」
同じやり取りを、何度繰り返しただろう。

今日のアポは十一時だった。
いつもと違う展開に、何か期待してしまう。
果たして。
「では、その線でよろしくお願いします」
───やった!
「ありがとうございます! では、こちらの売買契約書にサインと印鑑を……」
常に鞄に入っていた契約書。今日、初めて取り出せた。
僕の、初契約だ!

「随分長いことお付き合いさせてしまいましたね」
「とんでもないです」
にやけそうになる顔を必死で押さえている僕に、所長は判を押しながら言った。
「まあ、私としてはもう少しいじめたかったんですが、ソフトについては十分納得できたし、虫歯になるのも可哀相だし」
「え?」
「あの公園、私の席からよく見えるんですよ」
判をケースにしまった所長は、大理石のテーブルを挟んで身を乗り出した。
「今日は食べていないでしょう?」
そして、僕のあごを持ち上げ、キスする時みたいに顔を近づけると、
「匂いもしないしね」
眼鏡の奥の目を細めて、笑った。
「お昼、一緒にどうですか。チョコレートばかりじゃ身体に悪いですよ」
「……ありがとうございます」
僕は赤い顔のまま、気の抜けたお礼を返すのが精一杯だった。

『カカオポリフェノールがストレスへの抵抗力を増し、テオブロミンが集中力をアップさせ、糖分が脳に素早いエネルギー補給を行う』
チョコの効果は、僕の体内だけにとどまらなかったようだ。


−終−