マーマレード感傷


 一通りの準備をすませた、開店前の一服の時間。
 パンの香りとオーブンの熱気に包まれる厨房の奥の、狭いバックヤード。味気ない事務机の上に湯気の立つコーヒーカップを置き、いつものように椅子に腰掛けた俺の目に、昨日届いた業界紙が映りこんだ。口元に笑みが浮かぶ。
 その中には、古い友人が賞状を授与されている場面と、美しいピエスモンテ(デコレーションケーキ)の全体像、二つの写真を含む記事が載っていた。彼の名前と、「優勝」の二文字も。
 コーヒーを含む。いつものブラックが、胸の奥にかすかに生じた苦味をごまかす。

 あいつとは高校の時、進路が同じという縁で知り合った。結構いいとこの坊ちゃんで、記念日にはレストランへディナーに行くような環境で育ち、そこで食べたデザートに魅せられて、パティシエになろうと思ったのだという。
 無数にあったはずの選択肢の中からあえてこの道を選んだあいつは、実家がパン屋だからという理由で特に迷いもなく同じ道にいた俺とは、進学先は同じでも、意気込みが違っていた。
『すごいなあ。僕も頑張らなくちゃ』
 専門学校時代、何度この言葉を聞いただろうか。育ちのよさがいい方向に現れ、真面目な努力家だったから、できないことはできるようになるまで懸命に練習していた。少しばかり経験値が高かっただけの俺の優位などはかないもので、卒業する頃にはもう、技術的に目立った差はなくなっていたように思う。
 そして、そこからさらに研鑽を重ねたあいつは、今や日本一の肩書きを持つまでになったのだ。

 俺は遅くにできた一人息子で、お袋はあまり体が丈夫でなかった。それをカバーするために無理をしたのだろう親父も腰にヘルニアという爆弾を抱え、早晩厨房に立てなくなることはわかっていた。
 幸いにも俺は、三食全部におやつもパンで問題なしというほどのパン好きで、そして勉強はあまり得意でなく好きでもなかったから、親父の跡を継ぐことにさして抵抗はなかった。
 常連さんが日々買っていく食パン、子供たちが喜ぶ菓子パン、昼時にずらりと並べる惣菜パン。たまには頼まれて誕生日ケーキも作る、ご近所に愛される商店街のパン屋。
 自分の選択には納得しているし、後悔はない。
 卒業後の進路を決める時、先生に示された道を選べば、どこかであいつと肩を並べることもあったかもしれないが。
「……いや」
 首を振る。
 選ばなかった道は、いくらでもいいように想像できる。
 コーヒーを飲み干した俺は、店を開けるため立ち上がった。

「いらっしゃい……あれ?」
 頻繁に連絡を取り合うような関係ではない。だが、地元に戻れば、お前は必ずうちに顔を出す。
 俺はそれをうれしく思う。
「お前帰ってたの?」
「うん、今日」
 俺の顔は、いろんなものを、ちゃんと隠せているだろうか。

 一日の仕事を終え、二階の住居の方に引き上げてきた俺は、台所のテーブルの上に、金色に光る瓶を置いた。
『あ、これ。今年も』
 その台詞とともに手渡されたガラス瓶。中身は、手作りのマーマレードだ。あいつの実家の庭には夏みかんの木が植わっていて、毎年五月になるとその実でマーマレードを作っている。高三の時に一度作るのを手伝って以来、おすそ分けをもらうようになった。この時期、俺の朝飯は金色のトーストだ。

『速っ!! すごいね!』

 皮を刻む俺の手元を見て目を丸くしたあの顔を、昨日のことのように思い出す。

 すこし、味見する。
 俺があいつを思うときの気持ちとよく似ている。

 ほろ苦くて、甘い。
 

−終−




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