数学君と国語くん 2


 突然、前が見えなくなった。
 足の甲に軽い衝撃。
 俺は自販機の前でボタンを押した姿のまま、固まった。

 俺はとても目が悪い。かなり度の強い眼鏡を使っているが、ここ数日、左のちょうつがい部分の具合が悪化してきて、ネジを締めてもしばらくするとまたゆるむという状態になっていた。今日の部活が終わったら眼鏡店に寄って見てもらうつもりでいたのだが、間に合わなかったようだ。
 しかし、ぶつかったとか踏んだとか落としたとかならともかく、普通にかけてる最中に壊れるなんてどんな確率だ。
 「普通にかけていて壊れる回数/すべての壊れる回数」か。眼鏡会社はこういう統計をとっているだろうか。対象を俺に限定して考えると……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
 とりあえずボタンから手を離した俺は、そのまま膝を折り、床を探ってみた。何か細長い物が手に当たる。眼鏡の、つる……? いや、これは――
「笹川」
 背中を軽くはたかれ、俺は目元まで近づけた物体から視線をはずし、振り返った。もちろん、こちらに身をかがめている相手の顔も識別できない。だが、一人思いあたる人物がいた。
「工藤?」
「うん」
 やはりそうだった。先日初めて話をした同級生。人の顔と名前を覚えるのが非常に苦手で、いまだにクラスメートすら記憶しきれない自分には珍しく、それまで接点がなかったにもかかわらず顔も名前も知っていた生徒だ。すこししか話さなかったけれど、俺とはまったく違うベクトルで物事を捉えられる人間のように感じた。彼のような考え方ができればもっと国語の成績もましになるのだろうが、俺にはとても真似できそうにない。
 さっき拾った物体を握ったままの俺に、工藤は「えっと、あのさ」と切り出した。
「眼鏡、壊れたの?」
「そうみたいだ」
 そうだと答えたいところだが、まだ確認もできていない。ああ、ちょうどいい、工藤に聞こう。
「工藤、これは眼鏡のつるか?」
「……いや、ストローだよ」
「やっぱりそうか。白っぽいしな」
 部が始まる前にこうして購買に寄り、自販機でブリックのコーヒー牛乳を買う習慣の俺には、眼鏡ほどではないが馴染みの感触だった。ゴミはきちんとゴミ箱に捨ててほしい。
 しげしげと見えないストローを見つめていると、工藤が隣に腰を下ろした気配がした。
「そんなに悪いの? 目」
「ああ。強度の近視で、ちょっと乱視も入ってる。裸眼だと物のぼんやりした輪郭と色くらいしか見えない」
「そうなんだ。大変だね」
 彼はすこし身を乗り出して「ちょっとごめん、眼鏡、拾うよ」と、落ちた眼鏡を拾ってくれたようだった。
「左側のつるが外れて……ああ、ネジがなくなってる」
「近くに落ちてないか?」
 ネジのゆるみは珍しいことではないので、いつも財布に精密ドライバーを入れている。ネジさえあればこの場はしのげるのだが。
「んー、ちょっと探してみるけど。とりあえずここに座ってて」
 俺は眼鏡を手渡され、自販機の脇にある座席に誘導された。工藤は床をあちこち調べてくれている様子だったが、しばらくして立ち上がり、
「だめだ、見あたらない」
 と言った。
「そうか……」
 無理もない。あんな極小の物体、自販機の下にでも入ってしまえばもう見つからないだろう。さて、どうするか。
「予備の眼鏡とかないの?」
「ある」
 今日の昼休みにもそれを使ってネジを締めたばかりだ。
「でも、鞄に入れたまま部室に置いてきた」
 部室のあるD棟へと繋がる渡り廊下は、俺の教室を出たすぐ脇にあり、D棟とは反対方向にある購買に寄って戻ってくるのはかなり遠回りになる。だから俺はまず部室に寄って教科書や本などで重い鞄を置き、財布と携帯だけ持ってここに来ていたのだ。しかし、今後はそこに予備の眼鏡も追加しなければならないだろう。
 再発防止策を考えている俺に工藤は、
「俺、鞄取ってこようか」
 と言ってくれた。だが、彼もD棟の文芸部だったはずだ。
「工藤も部活に行くところなんじゃないのか」
「そうだけど」
 すると、俺は彼に一往復分もよけいに歩かせることになる。それならば自分が工藤と一緒に移動した方が無駄がないように思えた。
「それなら、工藤の後についていってもいいか?」
「笹川がいいなら、それでもいいよ」
 工藤の承諾を受けて立ち上がった俺は、そばにあったテーブルの角に思いきり腰をぶつけてしまい、大きな音を立てた。
「大丈夫!?」
 工藤の驚いた声の前で、俺は痛みに顔をしかめながら「大丈夫だ」と答えた。

 歩き出したとたん今度は自販機の角に肩をぶつけた俺に、工藤は「俺の肩につかまる?」と言った。だが、工藤によけいな手間をかけないようにと一緒に行くことを選択したのに、それでは意味がない。俺はその申し出を断り、右手で壁をつたいながら歩くことにした。しかし。
「もうすぐ壁がちょっと引っ込むから気を……えっ」
 角を曲がってすぐ。工藤の注意が途中で止まるのと同時に、俺のつまさきに何かが当たった。立ち止まったところ、今度は足元で金属製の物がやかましい音を立てた。
「もう、なんでこんなのがこんなとこにあるんだよ」
 説明によると、俺は壁の出っぱりの陰に隠れるように立てかけられていた雑巾モップの柄を蹴ってしまい、倒れたそれが下にあった空のバケツに当たってひっくり返ったのだそうだ。対処したくてもよく見えない俺は、工藤が片付けてくれるのを待っているしかなかった。
「お待たせ」
「悪いな、工藤」
 戻ってきた工藤に声をかけると、彼は、
「ううん。あんなの、出しっぱなしなのがおかしいよ」
 と答えた。まったくだ。使った物はちゃんと片付けてほしい……
「あ」
 思わず足を止めた。
「どうしたの?」
「コーヒー牛乳忘れた」
 俺の中で「放置された掃除道具」→「ゴミ箱に捨てられていないストロー」→「買ったコーヒー牛乳を自販機内に放置したまま」と記憶が繋がった。
「取ってこようか?」
「いや、後でまた行くから」
 さすがにこれ以上工藤に手間をかけるわけにいかない。後で行って残っているかどうかわからないが、とりあえず今は眼鏡への対応を優先させるべきだろう。そんなことを考えていると、工藤から思わぬ言葉が出た。
「笹川、あれ好きだよね」
「あれ?」
「あのコーヒー牛乳。いつも買ってるでしょ」
「そうだけど、どうして知ってるんだ?」
 俺が疑問を口にすると、彼は、
「あ、いや、今日みたいに部活行く前購買通るとよく笹川が買ってるの見るから。こないだ話したときも飲んでたし、よっぽど好きなんだなと思って」
 と言った。工藤に「いつも買ってる」と判断されるほど見られていたとは気づかなかったが、まあ周囲にうとい自分のことだから別に不思議ではない。さて、では俺があのコーヒー牛乳を好きかどうかだが。
「……わからない。習慣で飲んでたけど。でも」
 あらためて考えてみる。
「他に用事もないのにわざわざ寄り道してるくらいだから、好きと言ってもよさそうだ」
 と答えて、俺は工藤が動くのを待った。しかし、なかなか動かない。
「工藤、行かないのか?」
「あっ、ごめん。ちょっとぼんやりしてた」
 俺が尋ねると、彼はそう言って再び歩き出した。なぜか先ほどより早足になったみたいで、ついていこうとしたら次の壁の出っぱりに額をぶつけた。

 工藤に謝られながらも、なんとかその廊下の端までやって来たようだった。外に繋がる明るい気配がする。
「もうすぐ渡り廊下だよ。出るときちょっと段差になってるから、気をつけないと」
 工藤の注意を前方に聞きながら、俺は歩を進めた。だが――

「笹川!」

 頭上から声。顔と、肩の辺りを誰かにぶつけた感触。頬に当たる固い布は、制服のネクタイか。
「大丈夫? ごめん、段差ばっかり気にしてたけどマットもあった」
 どうやら、俺は渡り廊下の前の足拭きマットにつまづいて工藤に抱きとめられたらしい。
「大丈夫、じゃないかもしれない」
 体勢を立て直した俺がそう答えると、工藤は心配そうな声で「え、どっか怪我した?」と言った。
「いや、まだしてないけど、渡り廊下の床はコンクリートだし、D棟に入ったら階段もあるし」
 俺は大きくため息をついた。購買からここまで、直線にして100メートルも歩いていないと思うが、正直かなり疲れていた。目が悪いことにも、自分の対応のまずさにも。
「今日は判断を誤ってばかりだ。迷惑かけてごめん、工藤」
 もっと早く眼鏡店に行っていたら。予備の眼鏡を持ってきていたら。工藤に鞄を取ってきてもらっていたら。素直に肩を貸してもらっていたら。
 だが、落ち込んでいても仕方ない。さて今からどうするべきか――
「笹川、左手貸して」
「?」
 差し出すと、
「あとちょっとだから」
 工藤は俺の手首をつかんだ。
「行こう」
 そのまま、ゆっくり歩き出した。

 手を引かれてからの道のりは、それ以前と比べると非常に安心感があったが、情けないような、恥ずかしいような気持ちにもなった。
「俺、迷子みたいだな」
 俺がつぶやくと工藤は「まあ、似たようなもんだよね」と言った。
「どっちに行けばいいのかわからないわけだし」
「……本当だ」
 みたいじゃなくて、迷子だったのか、俺は。

 ともあれ、俺はその後不幸な目に遭うことなく、無事に部室までたどり着いた。
「失礼しまーす…って、誰もいないけど」
「俺以外は時々しか来ない」
 いつもは残念に思っていることなのだが、今日に限っては幸運だったかもしれない。あまり人に見られたい姿ではなかったから。
「はい」
 渡された鞄から手探りで予備の眼鏡をひっぱり出し、かけた。以前使っていた眼鏡なので少々度が合っていないけれど、ないよりははるかにましだ。これで眼鏡店にも行ける。
 先ほどよりははっきりと、しかし多少ぼんやりした工藤が「あ、落ちつくね」と言った。
「やっぱ、眼鏡してる方が笹川らしいっていうか」
「俺も落ちついた」
 ブリッジを押し上げる。
「本当に助かった。ありがとう、工藤」
「……や、そんなたいしたことしてないし……」
 礼を言うと、工藤がなんだかそわそわと落ちつかない様子に見えたが、たぶん見間違いだろう。先ほど彼は「落ちつく」と言ったばかりだ。

 部室にやって来た谷岡先生に事情を話したら、今日の部活は中止となった。眼鏡店に向かう前に自販機に立ち寄ると、俺のコーヒー牛乳はまだ放置されていた。
 ぬるくなったそれを飲みながら、工藤との別れ際の会話を思い出す。

『そういえば笹川、さっきよくすぐ俺だってわかったね』
『え?』
『顔とか全然見えなかったんでしょ? 声でわかった? やっぱ記憶力いいんだ』

「……」
 自慢じゃないが俺の記憶力は数学に関すること以外非常に悪い。特に対人関係は。
 そして俺はそれまで一度しか工藤と話したことがなかった。それもごく数分。
 なぜ俺は彼が工藤だとすぐにわかったんだろう。

 ――落ちつかなくなってきた。なぜだ。


−終−