数学君と国語くん 2.5


「じゃ、また後でね」
 同じクラスで同じ文学部員でもある女子と別れ、購買に向かった。別に、空腹なわけでも喉が渇いているわけでも文具が必要なわけでもないけど。

 気づいたのは、先週だった。
 放課後、購買で消しゴムを買っていたら、前日初めて話した人物が自動販売機の前にやって来た。そして、そのときに飲んでいたのと同じコーヒー牛乳を買った。
 彼は俺に気づかないまま、出てきた紙パックを片手にD棟の方向へと向かった。前日と同じようにそれを飲みながら異次元の雑誌でも広げるんだろうなと思った。
 翌日の放課後。ふとそれを思い出し、なんとなく購買に行ってみることにした。自販機からいちばん離れた座席につき読みかけの文庫本を出した直後、はたして彼は現れ、昨日と同じ動作で同じ物を買って同じように去っていった。文庫本は開かれることなくしまわれた。
「……毎日買ってるのかな」
 買っているからといってなんなのか、と自分でも思いつつ、なぜか俺はそれから、部活に行く前に購買を覗くようになってしまった。俺の教室の方が購買に近いことから、たいてい彼よりも先に着いた。そうでない場合も、紙パック片手の後ろ姿を確認できた。

 自分はいったい何がしたいんだろう。親しくなりたいのなら声をかければいいのに。

 ずっと、苦手なタイプだと思っていた。悪い奴ではないのだろうが、無口で無愛想で、話しかけても答えが返ってこないような、近寄りがたい存在。それは自分一人の印象ではなく、大多数の生徒が彼、笹川に対して持つパブリックイメージだった。実情はともかく傍目には社交的に映るだろう俺は、そういう部分でも彼と対比されていると思う。
 でも一度彼と言葉を交わした今、そのイメージは間違っている気がした。たしかに愛想があるとはいわないが普通に会話できたし、話すのを嫌っている様子もなかった。どうも、無類の数学好きという特異な性癖と、あの厚いレンズの眼鏡がそういうイメージを作り上げているように思える。
 しかし、そう考えながらもやはり声をかける気にはならない、なれないまま、今日で丸一週間。やはり彼、笹川は日課のようにそれを買っているのだと確認したとき、すでに事件は起こっていた。
 自販機の前で笹川が固まっている。コーヒー牛乳は出てきたはずなのに。
  ……あれ、目が?
 そのまま座り込んだ笹川は、手で床を探っている様子だった。近づくと、すぐそばに眼鏡が転がっているのが見えた。片方の柄が外れている。変なタイミングで壊れたものだ。あれを拾えずにいるということは、相当目が悪いのだろうか。
「笹川」
 背中を軽くはたくと、彼は振り返って、ものすごいしかめ面をした。いわゆる「ガン飛ばし」の表情にも見えて一瞬ひるんだが、これも目が悪いせいだろうと思いなおす。
「工藤?」
「うん」
 回答に疑問符が聞こえるものの、とりあえず俺だとわかる程度には見えるようだ。
「眼鏡、壊れたの?」
「そうみたいだ」
 彼はそう答えた後、握っていたストローを俺の前に突き出した。
「工藤、これは眼鏡のつるか?」
「……いや、ストローだよ」
 そこまで悪いの?
「やっぱりそうか。白っぽいしな」
 ……やっぱりって。
 俺が彼の立場だったら、「ストローかもしれないと思っている物」を人につきつけて直球で「眼鏡のつるか」なんて聞けない。まず自分の目が悪くてよく見えないことを伝え、どちらだったとしても恥ずかしくない状況にしてから尋ねるだろう。
 そして、ストローだと教えられたら照れ笑いのひとつでもして「目が悪いって嫌だね」とお茶を濁す。けっして、いま彼がやっているように真顔でもう一度しげしげとストローを眺めたりはしない。
 自分が他人にどう見られるかとか、あまり気にしないタイプなんだろうな。俺は、まさに今想像したようにごちゃごちゃといらないことまで考えて一人で勝手に疲れるタイプだから、ちょっとうらやましい。
 ストローをにらんでいる笹川の隣に腰を下ろす。
「そんなに悪いの? 目」
「ああ。強度の近視で、ちょっと乱視も入ってる。裸眼だと物のぼんやりした輪郭と色くらいしか見えない」
「そうなんだ。大変だね」
 予想以上の悪さに驚きつつ、身を乗り出して、二つに分かれてしまっている眼鏡を拾った。
「左側のつるが外れて……ああ、ネジがなくなってる」
 説明しながらふと、気づく。
 あれ、そんなに目が悪いんだったら――
「近くに落ちてないか?」
 いや、これは後回しだ。まずは彼の眼鏡をどうにかしなければ。
「んー、ちょっと探してみるけど」
 立ち上がり、近くの椅子をテーブルから引き出す。
「とりあえずここに座ってて」
 まだしゃがんでいた笹川を立たせて壊れた眼鏡を渡し、椅子まで誘導した。
 辺りを詳しく調べたけれど、小さなネジは見つからなかった。自販機の下の奥の方にでも入ってしまったかもしれない。
「だめだ、見あたらない」
 あきらめて笹川の方を向いた俺は、目を細めていない彼の素顔を目の当たりにし、本気でびくりとしてしまった。たしかに笹川なのに、一瞬、別の人かと思ってしまったのだ。それほどまでに印象が違う。
 眼鏡を取ったら別人なんて、どこの漫画だ。
 自分でツッコミを入れながら、そういえばと思い出した。同じように近視の後輩部員が、眼鏡は目が小さく見えるから嫌だと言っていたっけ。そうだ。まるで目が大きくなったみたいなんだ。レンズの度が強いから、拡大率…いや縮小率か、それも相当なんだろう。
 しかし、ただ付属物が外れただけなのに、どうしても「あるべきものがない」という印象を持ってしまう。単に眼鏡なしの笹川を初めて見るからだろうが、なんとも落ちつかない。
「そうか……」
 笹川は、当然だが俺の動揺に気づくことなく、その意外だったぱっちりお目々を伏せて腕を組んだ。がっかりした風ではなく、次の手を考えているようだ。今までの態度からみても、かなり沈着な性格がうかがえる。落ちついた彼の様子に、俺も気を取りなおして、尋ねた。
「予備の眼鏡とかないの?」
「ある。でも、鞄に入れたまま部室に置いてきた」
「俺、鞄取ってこようか」
 軽い気持ちで言ったら、
「工藤も部活に行くところなんじゃないのか」
「そうだけど」
「それなら、工藤の後についていってもいいか?」
 思わぬ展開になった。俺の予想ではそっちの方が大変な気がするんだけど、まあいいか。
「笹川がいいなら、それでもいいよ」
 答えると、それに応じて立ち上がった笹川の腰が、その勢いのままテーブルの角にぶつかった。衝撃で跳ねたテーブルの脚が床を鳴らし、耳障りな音が響く。
「大丈夫!?」
「大丈夫だ」
 そう言った彼は、目の悪さでないしかめ面をしていた。

 歩き出した笹川はしかし、今度は自販機に肩をぶつけた。よろけて転びそうになったところをなんとか踏みとどまる。……笑うな、耐えろ俺。
「俺の肩につかまる?」
「いや、壁をつたっていくから」
 俺だったら、あまり親しくない同級生の前でこの二連コンボはかなり恥ずかしいと思うのだが、笹川は特にそういうそぶりも見せず、手探りで自販機から壁まで移動して歩き始めた。こういう冷静すぎるところが、彼の近寄りがたさの原因のような気がする。
 時々ある壁の凹凸を警告しながら進み、角を曲がった直後だった。
「もうすぐ壁がちょっと引っ込むから気を……えっ」
 遅かった。笹川の足に蹴られたモップがバケツとともにやかましく転がる。
「もう、なんでこんなのがこんなとこにあるんだよ」
 俺の説明を聞いてやっと何があったか理解する状態の笹川に、片付けろといっても無理な話だ。俺はそれらを放置した奴を恨みつつ、いちばん近くにあった掃除用具入れに放り込んで戻ってきた。
「お待たせ」
「悪いな、工藤」
「ううん。あんなの、出しっぱなしなのがおかしいよ」
 返事をしながら、笹川から出た謝罪に驚いていた。
 なぜ驚くのか。俺は彼をそんなに冷たい人間だと思っていたのか? だとしたらずいぶん失礼な……
 待てよ。「冷たい」?

 そうか。笹川は冷静だが、冷たくはないのだ。

 漠然と感じていたことをうまく表現できた。そんな気分でいたところ、「あ」と笹川の足が止まった。
「どうしたの?」
「コーヒー牛乳忘れた」
 ああ、そういえば。俺も忘れてた。
「取ってこようか?」
「いや、後でまた行くから」
「笹川、あれ好きだよね」
「あれ?」
 あ。
「あのコーヒー牛乳。いつも買ってるでしょ」
 言いながらしまったと思った。
「そうだけど、どうして知ってるんだ?」
 そう、そうだった。
「あ、いや、今日みたいに部活行く前購買通るとよく笹川が買ってるの見るから。こないだ話したときも飲んでたし、よっぽど好きなんだなと思って」
 あやしまれなかっただろうか。ドキドキしながら返答を待つ。
「……わからない。習慣で飲んでたけど。でも」
 変には思われなかったらしい。ほっとしかけたら、
「他に用事もないのにわざわざ寄り道してるくらいだから、好きと言ってもよさそうだ」

 「他に用事もないのにわざわざ寄り道」するのが、何だって?

「工藤、行かないのか?」
「あっ、ごめん。ちょっとぼんやりしてた」
 あわてて歩き出したら、斜め後方で人が壁にぶつかる鈍い音がした。
 
「もうすぐ渡り廊下だよ。出るときちょっと段差になってるから、気をつけないと」
 そう言いながらも変に彼を意識してしまった俺は、手を貸すことができずにいた。いやだって、数学なんかが死ぬほど好きで他人の目を気にしなくて冷静だけど冷たくなくて眼鏡を取ると目がぱっちりとかどんだけ俺の――
「笹川!」
 足拭きマットの縁につまづいた笹川が胸に倒れこんでくる。それほど勢いはなかったが、心はそれ以上の衝撃を感じた。
「大丈夫? ごめん、段差ばっかり気にしてたけどマットもあった」
 動悸を隠して言った。
「大丈夫、じゃないかもしれない」
 思わせぶりな台詞だ、と感じてしまった心にも蓋をする。彼はそんなキャラじゃないだろう。
「え、どっか怪我した?」
「いや、まだしてないけど、渡り廊下の床はコンクリートだし、D棟に入ったら階段もあるし」
 大きなため息をついた笹川の落ち込んだ表情が、眼鏡に薄められることなく、ダイレクトに俺の目に映った。
「今日は判断を誤ってばかりだ。迷惑かけてごめん、工藤」

 ――本当にもう、俺はごちゃごちゃ考えすぎる自分が嫌だ。

「笹川、左手貸して」
「?」
 差し出された腕。
「あとちょっとだから」
 手首をつかんだ。
「行こう」
 そのまま、ゆっくり歩き出した。

「俺、迷子みたいだな」
 笹川のつぶやき。俺は「まあ、似たようなもんだよね」と応じた。
「どっちに行けばいいのかわからないわけだし」
「……本当だ」
 実をいうと、俺もそんな気分なんだ。

「失礼しまーす…って、誰もいないけど」
 誰かいた場合に備えて心構えをしながらドアを開けた俺は、空っぽの室内を目にして拍子抜けしてしまった。
「俺以外は時々しか来ない」
 それで部を名乗ってもいいのかと思いつつ、机の上にぽつんと置いてあった鞄を取り上げる。
「はい」
 手探りで眼鏡を取り出した笹川は、そこからは慣れた動作でスムーズにそれを装着した。
「あ、落ちつくね」
 心からの言葉だった。変な例えだが、裸の人が服を着てくれたような気分だ。
「やっぱ、眼鏡してる方が笹川らしいっていうか」
「俺も落ちついた」
 ブリッジを押し上げるしぐさが妙に懐かしい。
「本当に助かった。ありがとう、工藤」
 レンズの効果により小さくなってしまった目で、まっすぐに見つめられた。
「……や、そんなたいしたことしてないし……」
 この人はやっぱり、恥ずかしいとか照れるとかいう感情は持ってないんじゃないか。ストレートすぎて俺みたいなひねくれ者には心臓に悪い。
 話を変えたくなって、先ほどの疑問を持ち出した。
「そういえば笹川、さっきよくすぐ俺だってわかったね」
「え?」
「顔とか全然見えなかったんでしょ? 声でわかった? やっぱ記憶力いいんだ」
「……」
 ……もしもし?
 なぜか笹川が長考に入ってしまい困っていたところ、タイミングよく谷さんがやって来た。
「おー? 入部希望かでこぼこフレンズ」
「んなはずないでしょ」
 俺の数学の黙示録的壊滅状態を、元担任の彼はよくご存知だ。
「ちょっと笹川の眼鏡が壊れたからここまでついてきただけ。じゃ、失礼しまーす。じゃあな、笹川」
「あ、ああ、じゃあまた」
「眼鏡ー? お前大丈夫か?」
 谷さんの声を聞きながら、教室を後にした。たぶん深い意味はないのだろう「また」を心にひっかからせたまま。
 
 帰りがけ、気になって件の自販機に寄った。
 取り出し口は空になっていた。笹川が律儀に持っていったんだろう。
 記憶の笹川と同じ動作で硬貨を入れ、同じボタンを押してみた。茶色い紙パックがごとん、と落ちてきた。
 ストローをくわえ、異次元の雑誌を広げていた彼の姿を思い出す。
「甘……」
 この糖分とカルシウムの塊を毎日摂取したら、俺の数学もすこしはましになるだろうか。


−終−