甘い運命 (1)


 柴山拓人(しばやま たくと)・25歳独身サラリーマンは朝っぱらから威勢よく走っていた。何しろ、次の電車に間に合わなければ確実に遅刻だからだ。
 カンカンカンカン。
聞こえてくる踏切の警告音に煽られ、焦って角を曲がった瞬間。
「ぅわっ!」
衝撃があって、どさりと音がした。この音を立てたのは柴山ではない。自慢じゃないが柴山は中学高校とバスケをしていた180cm超級の大物である。ぶつかれば大概ふっ飛ぶのは相手の方だ。
「ごめ…」
「どこ見てやがるコンチクショー!!」
弾けるような大きな怒鳴り声に、柴山は思わず首をすくめた。
 まさか、今流行りのキレる若者ってやつ?
ちょっとビビって目を開けると、相手は意外や、小柄な男の子だった。ダンガリーのシャツにジーンズ、スニーカーといういでたちで、大きなリュックを肩にひっかけている。私服高校生だろうか。
 男の子はひとつ頭を振ると、辺りを見回し、ひっくり返った白い箱を見つけて絶望的な声を上げた。
「あああ〜!!」
慌てて箱を開け、中を覗いた彼は世にも悲しそうな顔をした。その様子に柴山の不安は募る。俺、いったい何壊したんだ?
「あ、あの…」
恐る恐る声をかけた柴山をきっ、と睨みつけた彼は、立ちあがると、その箱を突き出した。
「ぐっちゃぐちゃになったじゃねーかこンの大バカヤロー!! てめ、責任とって全部食え!!」

 ───は?

 意味を図りかねた柴山はとりあえず、突き出された箱を見た。中には濃い茶色の塊が入っていて、あちこちにべたべたした物がくっついている。数秒後、それがつぶれたシュークリームだと悟った柴山はしかし、その後の行動を取りあぐねた。
 弁償しろならともかく、なんで「食え」になるんだ?
 わけがわからず、頭一つ分以上小さい相手をうかがう。よく見れば彼は、大きな目をしたなかなか可愛らしい顔立ちをしている。しかし、その大きな目を怒りに吊り上げ、睨みつける姿には有無を言わせぬ迫力があった。
「食えっつってんだろ?」
促され、柴山は無残な姿になった塊を一つつまんで、ためらいがちに口に運んだ。
「……うまい」
口に入れた途端、柴山はこの謎に満ちた状況を忘れ、感嘆の声をもらしていた。多少つぶれているとはいえ、パリッとしたシュー皮は歯応えがあって香ばしく、こくのあるクリームと絶妙にマッチしている。またこのクリームが、すばらしく香りがいい。今まで食べていたシュークリームはいったい何だったのかと、シャレでなく言いたい気分だ。
 シュークリームって、こんなうまいもんだったか?
「ふふん?」
ペロリと一つ食べ終えてしまった柴山は、思わず相手に尋ねた。
「も一個食っていい?」
「おう、全部食えつってんじゃん」
柴山の食べっぷりに気を良くしたらしい彼は、今までとはうって変わった上機嫌な声で残りをすすめた。もう一つ取って、今度は躊躇なくかぶりつく。
「あれ?」
さっきのは普通の黄色いクリームだったが、これは緑色だった。でも、最初に予想した抹茶味ではなく、上品な甘味と風味のあるクリームだ。
「それはピスタチオクリーム、色きれいだろ」
 ほうほう。
「こっちはアーモンドのプラリネ。このショコラはキルシュ漬けのチェリー入り」
 なるほど。
「生クリーム入ってるからそんなしつこくないだろ?」
 うんうん。
 結局柴山は、朝っぱらからシュークリーム4個をたいらげてしまった。あまりにうまかったので指についたクリームまで舐めていると、男の子は驚くほど真剣な顔で聞いてきた。
「普通の以外でどれがいちばんよかった?」
「んー、全部うまかったけど。どれかって言ったら、プラ…なんとか? カリカリしたのが入ってたやつ」
そう言った途端、可愛らしい顔が全開でにっこりと笑った。
「だっろー! 俺もあれがいちばんうまいと……って、やっべー遅れるじゃんよ。よし、今日のところは許してやる。じゃあな!」
 足早に去っていく後ろ姿を見ながら柴山は、あの大量のシュークリームを食べられたのは、寝坊して朝飯抜きだったからだと気がついた。
 ……遅刻だ。