ビジネス・アビリティ (2)


 名前を呼ばれ、俺はかなり動揺した。以前、どこかで接点を持ったことがあるだろうか。記憶を探ったが、思い出せない。もしこの人が、当然名前を知っているべき立場の人物だったらどうしよう。
 いろいろ考えすぎて返事ができずにいると、彼はごく軽い調子で言葉を継いだ。
「ん、違ったか?」
「い、いえ、竹崎ですけど」
どうやら、それほど大きな接点ではなかったようだ。少しほっとした俺に、その人は自分から名乗った。
「俺は営業の浜田」
 ……ああ、この人が。
 俺は「浜田さん」について、先輩たちの信頼ぶりから、長年勤務しているベテランの営業さんだろうと勝手に想像していた。しかし本物は、おそらく俺とそれほど違わない、どう見てもまだ三十歳未満の若い男性だったのだ。だが彼は、俺なんかとは比べ物にならないくらいに落ち着いた、社会人の風格みたいなものをにじませていた。この人ならキャリアなど関係なく、周囲に信頼されることもわかると思えるような。
 俺は浜田さんに話しかけられたことに感慨を覚えると同時に、疑問も持った。
「あの、どうして僕の名前、ご存知なんですか」
俺の問いに、浜田さんは煙草を吹かしながら、
「フロアに来て挨拶したじゃないか」
と言った。その回答に、俺の感慨はさらに深まった。たしかに入社式の日、新人紹介という名のもと、人事担当者に連れられて各フロアを行脚した。でも新人は他にもたくさんいて、各人の挨拶なんてほんの一言二言だった。それなのに、名前まで覚えているなんて。営業の人ってすごいんだなと、その時は思った。営業だからといって皆そんな人ばかりではないと知るのはもっと後の話だ。
 さて、もともと口下手な上に相手があの浜田さんということで、妙に緊張してしまった俺はうまく話の糸口を見つけられずにいた。そんな状況を知ってか知らずか、浜田さんは自然な様子で話題を提供してくれた。
「お前さんとこの課長、最近どうだ。機嫌悪いんじゃないか?」
「えっ、どうして」
「また部長とやり合ったらしいからな」
その時俺は初めて、自分の所属するシステム事業部の部長と、直属であるシステム1課の課長とが犬猿の仲であることを知った。理論派の部長と、感覚派の課長はどうもうまが合わないらしい。正直、人間関係の機微を読み取る勘は鈍いので、全然気づいていなかった。
「つまらんことで怒られたら、まず部長とのケンカのとばっちりを疑うことだ。心当たり、あるだろ?」
それで思い出した。今朝のミーティングで、不具合の報告をした先輩が課長にネチネチ小言を言われていたことを。同じような内容の報告でも「早急に対処してくれ」の一言で終わることもあり、課長の対応の差に戸惑いを感じていたのだが、そういうことだったのか。
「両極端なんだよな、二人とも。部長は理不尽なことは言わないけど慎重すぎて頭が固いし、課長は新しいものも積極的に取り入れる柔軟思考だけど、気分屋だ。足して二で割ったらちょうどよくなりそうなもんだが」
鋭い観察にうなずきながら、ふと、思ったことを口にした。
「浜田さんは、元はシステムの人だったんですか?」
すると、
「なんだ、その冗談」
と、笑われてしまった。俺はいたって真面目に聞いたのだが。
「だって、システムの事情に詳しいじゃないですか」
少しむっとしてそう続けると、浜田さんは煙草の灰を落としながら、こう言った。
「『敵を知り己を知れば百戦危うからず』って言うだろ? 競合他社だけでなく、自分の会社のことも知らなきゃ、いい営業はできないんだよ」
故事成語付きの説得力ある理由に、なるほどと感心していたら、
「……なんてな。お前さんとこの上司のご機嫌は俺の納品と直結してるんで、特に注意してるだけだ」
と、オチをつけられ、笑わされてしまった。その二つの台詞がしかし、表現が違うだけで実は同じ意味を持っていたのだと気づくのも、もっと後の話で―――


「……おい、痛いって。竹崎」
「あっ、すみません」
手をはたかれて我に返った。物思いに夢中になって、つい同じ所ばかり揉みつづけてしまったらしい。上半身をこちらにひねった浜田さんが、俺の顔を見上げている。
「何思い出してたんだ? ニヤニヤしやがって」
「してませんよ」
「嘘つけ」
浜田さんは左手で俺の額をこづいた。敬愛する相手がみせてくれる親密な態度に、照れながらも喜びを感じていたが、
「鍋、そろそろじゃないのか」
つれない台詞に促され、名残を惜しみつつも立ち上がってキッチンへ向かった。まあいいか、時間はたっぷりあるし。
 沸いた鍋を卓上コンロの上に置く。
「でも、Bシステムズもずいぶん思い切りましたよね」
酒の箱を開けている浜田さんに、さっきまでの話題の続きを振った。
「あれってフルカスタマイズでしょう? 百万も下げて、採算取れるんですかね」
「値段はさておき、どうしても取りたいってとこだろうな。Bシスは椎葉とケンカ別れした奴らが立ち上げた会社だから」
「え、そうなんですか」
椎葉電子はうちと同業の大手で、今回入れ換え対象となっているマルエイの旧システムを作っていた会社だ。
「ああ、一年くらい前だったか。システムの部長と経営陣が対立したらしくてな。その部長が部下をごっそり引き連れて辞めた後、椎葉の外注やってたBTSって会社とくっついてできたのがBシステムズなんだ」
「BTS?」
「知ってるのか?」
俺は日本酒用のコップを浜田さんの前に並べながら答えた。
「たしか、専門学校の同級生が勤めてたとこです。なんかゴタゴタがあって辞めたって言ってたけど、それと関係あるんですかね。相当恨んでるみたいでしたよ」
「へー……」
 土鍋からは湯気とともに食欲をそそる香りが立ち上っている。いよいよ具材を投入すべく、俺はトレイを持ち上げた。
「これ、入れる順番とかあるんですかね」
トレイ片手に考えていると、浜田さんがぽつりと言った。
「会いたいな」
 ―――は?
「そいつに会って、そのゴタゴタってのを詳しく聞きたい。今から、無理か?」
「ええっ?」
「幻の酒を飲ませてやるから来いと言え」
 いつ幻になったんですかその酒は。
 心のツッコミもむなしく、浜田さんのごり押しに負けた俺は急遽、電話で友人を呼び出す羽目になった。そして酒と鍋につられてやって来た奴は、浜田さんの卓越した人心掌握術にみごとにはめられ、件のゴタゴタについて詳細に語ったあげく徹夜で飲み明かして、気づけば三人、こたつで雑魚寝というありさま。そして喉がからからに乾いて目が覚めた直後、今度は俺に会社から緊急召集がかかり、久々の逢瀬はため息しか出ない結末に終わってしまったのだった。


 次に浜田さんと会ったのは、思い出の喫煙所だった。一人でいるところに浜田さんがやって来て、俺の前の席に座る。展開までよく似ていた。
「ちょうど良かった」
浜田さんはそう言って、記憶と同じ動作で一服すると、
「マルエイ、受注したぞ」
と、口角を上げた。どうやら、あの日に得た情報は有効に活用されたらしい。
「おめでとうございます」
俺は祝福の中にほんの少し、皮肉をこめた言葉を告げて、短くなっていた煙草をもみ消した。
 しばらく雑談した後、俺は「じゃあ」と先に席を立とうとした。
「あ、ちょっと待て」
手首を取られ、振り返った時。下からすうっと接近してきた唇に、自分の唇をかすめられた。
「…………っ?!」
数秒かかってやっと、何をされたのか理解した。うろたえる俺の前で浜田さんはにやりと笑い、
「続きは、今週末」
という捨て台詞を残して、さっさと消えてしまった。
―――あーあ」
 我ながら、みごとなまでに振り回されていると思う。
 でも、それが楽しくてしかたない。どうやら、かなり重症のようだ。


−終−