ビジネス・アビリティ (1)


 新品の土鍋を開封し、中から出てきた「使い始めはお粥を炊きましょう」などと書かれた紙に顔をしかめていたところ、チャイムが鳴った。小走りで玄関に向かう。
「はーい」
ドアを開けると、待ち人の姿があった。
「お疲れさまです」
「おう」
厚手のコートとマフラー姿で中に入ってきた浜田さんの手には、黒のアタッシュケースと、背の高い箱の入った紙袋が下がっている。
「重かったでしょう」
「まあな」
荷物を受け取ると、どちらもずしりときた。それもそのはずだ。アタッシュケースにはノートパソコン、箱には一升瓶が入っているのだから。
「あっちは雪でしたか」
「ああ、すんげー寒かった」
「あそこ、どうでした?」
俺の質問に、浜田さんは靴を脱ぎながらにやりと笑った。
「相変わらずだ。いい風呂だったぞ」
 浜田さんは一昨日から泊まりで出張していた。納品がてら何軒かのユーザーを回るためだが、その中には以前、俺が同行したあの家具店も含まれていた。そう、彼が泊まっていたのは俺たちがつき合うきっかけになったあの「宿泊施設」だったのだ。
「あそこに泊まると予定通りには帰れないみたいですね」
「まったく」
今は土曜の夕刻。本来なら休日で、浜田さんも昨夜のうちに戻ってくるはずだった。だが、今回納品に行った先の専務が酒の席でえらく浜田さんを気に入り、知り合いがやっている日本酒の蔵元にぜひ案内したいと言い出して、休日返上でお供することになったらしい。ここしばらくの土日はすれ違いが続いていて、久々に一緒に過ごせると思っていたから、昨晩遅くに来た予定変更を告げるメールには少なからずがっかりした。しかし、最後の「うまい地酒を買って帰るから鍋でも用意しておいてくれ」という一文に促され、今まで我が家に存在していなかった土鍋や、鍋の具材セット、鍋用スープなどを買い込んで帰宅した頃には、気分もかなり上昇していた。
 料理はあまりしたことがないので、セットに書かれたレシピを読みながら準備を進める。重装備を解いた浜田さんは、ネクタイをくつろげながらこたつに入り、煙草に火をつけた。そして一服すると、キッチンまで聞こえるような大きなため息を、煙とともに吐き出した。それは「ほっと一息」とはまったく別の類のものに感じられて、俺は土鍋を洗う手を止め、声をかけた。
「どうしました?」
「……マルエイの件がな」
その名は何度か耳にしていた。浜田さんがいま商談に入っている、既存システムの老朽化に伴うシステム総入れ換えの件名だ。けっこう大きな商談だが、Bシステムズという会社と競合しているらしい。
「Bシステムズがうちより−100で出しやがったらしいんだ」
「ええっ?」
「それで、担当者はいいんだが、上の方が揺れててな」
浜田さんは、すっと伸びた形のいい眉をひそめた。
「百万違えば、いくら担当がうちを推しても、鶴の一声が出る可能性はおおいにある。……安かろう悪かろうでもな。やなご時勢だ」
「本当ですね」
俺は相槌を打ちつつ、お粥云々の件は見なかったことにして土鍋にスープを注ぎ、火にかけた。沸いたら卓上コンロに移して、具を入れればいいらしい。それまで暇だ。
「肩でも揉みましょうか」
「ん、頼む」
俺の肩揉みはなかなか上手いと言われている。自分も凝り性なのでツボがわかるからだろう。
「かなり凝ってますよ」
「寒かったしな……ぐぅわ、すげえ効く」
固くなった筋肉を揉みほぐし、久しぶりに見るうなじをしみじみ眺めたりしつつ、話を続けた。
「で、どうするんですか」
「手を引くかどうか、考えてる」
煙草を挟んだ指が、灰を灰皿に落とした。
「つられて値を下げて、無理に取っても痛い目見るだけだしな。値段だけで判断するようなところには売らない方がいいことも多いし……、もうちょい下…、そう、そこ」
細く立ち上る煙を眺めながら、俺は浜田さんに憧れを抱くようになった経緯を思い出していた。


 俺が浜田さんの名前を初めて聞いたのは、入社一年目の夏だった。
 その頃俺はまだ、先輩たちのサポートとしてちまちましたプログラミングをあてがわれている身だった。大きな機械の中にある部品の、そのまたさらに中にある小さな歯車を作るような作業だったが、実際に商品として売られているものの一部を自分が担当しているということに、素直に喜びを感じていた。
 ある時、次のステップとして、今までよりボリュームのあるプログラムを一本、任されることになった。歯車作成から部品作成への格上げだ。その仕事は要求仕様がとてもわかりやすく、目的も明確で、期限内に余裕を持って終わらせることができた。仕上がりも満足で、これからもPEを続けていく自信を持てたほどだった。
 ところが、その次に来た仕事は、要求仕様があきれるほどに曖昧だった。その上、なんだかんだと変更や追加が入ってくる。先輩たちに何度も助けてもらって、なんとか期日までに形にはなったが、結果にはかなり不満が残った。
 この差はいったいなんなのかと先輩に聞いたところ、
「最初のは浜田の件名だから、初心者向きだと思ってお前に振ったんだよ。普通はまあこんなもんだ」
と、返ってきた。俺はその時、目の当たりにした現実に頭痛を覚えるのと同時に、「営業の浜田さん」=「いい仕事をする人」というイメージを抱いたのだ。

 それからひと月も経っていない頃だったと思う。その日俺は、誰もいない喫煙所で一服していた。すると、お仲間らしい男性が一人、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。顔は見たことがあるような気もするが、名前は知らない。といっても、あまり人づきあいが得意でない上に、いつもシステムのフロアに引きこもって仕事している俺には、名前まで知っている社員はそう多くない。
 その人物は案の定同じスペースにやって来て、なんと俺の目の前の椅子に座った。落ち着いた動作で煙草に火をつけている。気まずいなと思っていたら、彼は最初の煙を吐いた後、突然口を開いた。
「竹崎、だっけ? システムの」