狼が月を跳び越えた (2)


――はい、機種はD●Mでよろしかったですか? では二名様、302号室へどうぞー」
 俺はフロントのやる気のないマニュアル接客ボイスを背に、武井を引き連れ、店の奥にあるエレベーターへと向かった。


 あの尋常ならざる出来事の後、とりあえずジャケットの前を留めて破られた服を隠し、公然猥褻状態の武井を建物の陰に放り込んだ俺は、武井が狼に変身したと思われる現場を探した。
 場所はすぐにわかった。衣類が散乱していたからだ。
 ひしゃげたサングラス、千切れたマスク。点在する帽子と靴。シャツなどは破れてボロボロだったが、パーカーとジーンズは形を残していた。それらを手早く回収し、もう着れない残骸はシャツの布で包んで、これも武井のものと思しきリュックの中に叩き込む。早く戻りたいところだが、このままゴミを放置するなど俺のモラルが許さない。
 持ち帰った衣類を武井に着させ、ノーパンが落ち着かないなどと泣き言を漏らすケツをひっぱたきながら俺が選んだ「月の光の届かない所」は、近くの通りにあるカラオケボックスだった。ここなら窓はないし男二人でもおかしくないし呼べばすぐに人が来る。完璧だ。


「さて、詳しい事情を聞かせてもらおうか」
 ドリンクを持ってきた店員が去り、モニターに最新カラオケランキングの紹介VTRが映し出される中、俺は縮こまっている後輩に話を切り出した。
「……俺んち、代々狼男の家系で」
 狼男の分際でホットココアのカップをかわいらしく両手で包み込んだ武井は、ぽつぽつと語り始めた。いわく。

 彼の一族の男性は代々、満月の夜に狼に変身してしまう特異な体質の持ち主、いわゆる「狼男」である。ひとたび狼の姿になってしまうと感情のコントロールが難しく、その強靭な身体、鋭い爪や牙は人間を含む他の動物たちにとって時に残酷な凶器となる。それを良しとしなかった彼の先祖たちは、満月の夜には外出をせず静かに過ごし、また万が一の時にもできるだけ被害を大きくしないように、常日頃から激情を抑え、温厚で穏やかな人柄を保つべく己を律してきたのだった。

「つまり、お前のそのヘタレな性格は、先祖代々積み重ねてきた精進努力の賜物なのか」
「……つっこむところはそこですか?」
 俺の台詞の後、たっぷりの沈黙を挟んだ武井は、そう言って。
――よかった」
 と、少し笑った。
「渡辺先輩って、こういう話絶対信じない人だと思ってました」
「どうして」
「だって、オカルト的なことに全く興味ないし、幽霊とかそういうのも全然怖がらないじゃないですか。サークルの合宿でやった肝試し、墓地の中を一人サクサク歩いてっちゃって」
 お前は腰を抜かしてたっけな。狼男が幽霊怖がるってどういうことだ。
「確かに俺は現実主義者だが、だからこそ自分の目で見たものは疑わない」
 俺は自分のウーロン茶のグラスを取り上げ、一口すすって続けた。
「その話を信じないとすると、お前のあの行為はハリウッドも真っ青の特殊メイクで俺を驚かしたあげく素っ裸になって謝罪するというドッキリなわけだが、技術的に相当困難な上に何のメリットも意味も感じられないそっちの解釈の方がよっぽど非現実的で無理がある」
「……」
 武井は何か釈然としないような顔をしたが、何も言わずにココアを飲んだ。
「ところでさっき、狼になったら感情のコントロールが難しいと言ってたが、全然できないのか?」
「いえ、ある程度の理性は残ります。でも、その、人間の時よりも本能的な欲求が強くなってしまって……」
――唐揚げセットでも頼むか」
「? はい」
 一応もうひとつの可能性も考えた俺は、武井の好物を注文しておくことにした。画面は今月のパワープッシュソング特集に変わっている。
 フロントとの通話を終えて席に戻ると、
「先輩、ほんとに、ありがとうございます」
 武井に神妙な顔で礼を言われた。
「割り勘だぞ」
「いえ、唐揚げじゃなくて。――あの時俺、もう先輩に会わす顔がないって思って」
 んー。まあ、そうかもな。
「先輩のこと、その、襲ってしまったのに。こうやって、普通に接してくれて……」
「その件で質問があるんだが」
 俺は、確信を得るために問いを発した。
「お前がさっき暴走させたのは、食欲か性欲か、どっちだ」
――――――!!!」


「わあっ!」
 真っ赤になって固まっていた武井が、不意に素っ頓狂な声を上げた。見ると、なんと手の爪が形を変えようとしている。それは次第に鋭く尖っていき、手の甲からは毛が生え始めた。おい、なんで屋内なのに変身する!?
「うわ、どうしよう!」
「お前、もうすぐ店員来るんだぞ! 死ぬ気でこらえろ、ここはペット禁止だ!」
「そんなこと言ったってって、えっ、そこですか!? 俺ペットじゃないよ!」
「動物なんだからペットじゃなくたって駄目だろ! とにかく、いま変身なんかしたらもう二度とお前と口きかないからな!」
「わーんそんなのやだー!!」
 あちこち形が変わっていく武井は、必死の形相でぶつぶつ九九を唱え出した。時々こいつがやるこれは、どうやら心を落ち着けるための呪文らしい。まるで挿入してすぐ昇天しそうになって慌ててる童貞みたいだななどと思っていたその時、おざなりなノックとともにガチャリ、とドアの開く音がした。


「ごゆっくりどうぞー」
 やる気のない挨拶を残した店員は、一向に選曲されず、全国歌うま採点バトルキャンペーンのお知らせが流れるままになっている部屋から出て行った。たぶん今ごろ「最近の小道具ってよくできてんな」とかなんとかつぶやいているだろう。彼が唐揚げ&ポテトのセットを運んできた302号室には、ふさふさに毛の生えた耳と尻尾、リアルな爪と肉球付きの前足を着用した「獣耳コスプレの男」がいたのだから。