狼が月を跳び越えた (3)


「……大丈夫、でした……か、ね?」
「まあ、ちょっと仮装大賞のレベルは超えてるが、一応中身は人間に見えるから大丈夫じゃないか」
 胸の前で乙女のように両手(前足?)を握り締める涙目の獣耳男に、俺はそう告げた。これくらいでいちいち大げさに驚いていたら都会の夜のバイトは勤まらないだろう。
 まだ不安げな表情の武井に、
「ところで、窓もないのに、なんで変身した?」
 と尋ねると、
「月の光は、変身を促しはするけど、変身の原因ではないんです」
 力ない声の答えが返ってきた。
「俺たちが変身するのは月そのものの力のせいなんです。月の力が最大になる満月の夜、俺たちは変身欲求を強く喚起されます。心静かに一晩過ごせばなんとかやり過ごせるんですけど、感情が高ぶるとスイッチが入ってしまって、たとえ月の光を浴びなくても変身してしまうんです」
 一気に言って、ため息をつく。
「こんな中途半端な状態で止まったのは初めてですけど……」
「元に戻れないのか?」
「狼にはなれるけど、人間に戻るのは、月が沈むまで無理です」
「でも、さっきは戻ったじゃないか」
 俺の疑問に、武井は「それは」と、言葉を詰まらせた後。
「……必死、だったから」
 沈痛な顔でつぶやいた。

 しばしの沈黙の後。武井は、意を決した面持ちで、
「さっきの質問の答え。性欲です」
 きっぱりと言った。
「月が翳らなかったら、俺、きっと最後までやってた」
 眉間にしわを寄せ、自身の鋭い爪を見つめている。
「渡辺先輩、今日はもう帰ってください。これ以上俺と一緒にいたら、先輩の身が――
「いや、お前には無理だろ」
 自分の台詞にかぶせられた俺の台詞に、武井が驚いたように顔を上げた。
「お前は肝心なところで必ず失敗するヘタレだからな。不良にからまれた俺をかばおうとしてつまずいて捻挫するとか、川で足がつった俺を助けようとして自分が溺れるとか」
 前者は警察を呼ぶ傷害で訴えると畳みかけた俺に不良たちがびびって逃げ出し、後者は自力で岸に戻った俺がこいつに浮き輪を投げた。このような例は枚挙に暇がない。
「あそこで月が翳らなくても、お前は絶対元に戻ったはずだ」
「どうせ俺はヘタレですよ……」
 耳と尻尾をしょんぼりと垂れさせ、うなだれる武井。
 だが。
 俺はつまり、「お前が俺を傷つけるはずがない」と言ってるんだがな。それをはっきり教えてやるほど、今は優しくなれそうにない。
「だいたい、さっきお前、『俺やっぱホモだったんだ』とかぬかしやがったな」
「……はあ」
「あの時はそれどころじゃなかったが、落ち着いて考えてみたらめちゃくちゃ腹が立った」
「えっ、す、すみませ……」
「お前本気でさっきまでわかってなかったのか」
「え」
 あああ畜生、口に出したらますます腹が立ってきた。
「あれだけ毎日毎日俺に向かって好き好きオーラ垂れ流してだだ漏らして、サークルメンバーどころか学部の連中や教授にまでバレバレなのにまだそんな段階とか仮にもモンスターと呼ばれる種族の一員のくせにどんだけチェリーだふざけんなお前」
「えええっ!?」
 武井は前足を両頬にあて、真っ赤になって叫んだ。
「先輩、も、わかってたんです、か?」
「当然だ」
 俺の顔見るたびに尻尾ぶんぶん振って飛びついてきやがって、わかるなって方が無理だろう。まさか本当に尻尾がついてるとは思わなかったが。
 俺は唐揚げを一つ、つまみ上げた。
「なんか、いろいろ悩んでた自分が馬鹿みたいだ」
 男同士なのにとか、でも嫌ではないなどっちかっていうと嬉しいとか、こいつなら大丈夫なんじゃないかとか、告白されたらなんて答えよう、とか。
「あの、あのあの、……い、嫌、じゃ、なかった、ですか」
「嫌だったらお前みたいなヘタレといつまでもつるんだりしない」
 茶色の塊を口に放り込んだ俺に、「先輩」と、獣耳男が泣きそうな声で言った。
「やばいです俺、また変身しそうです」
「……俺、大型犬好きなんだ」
 雑に噛み砕いた肉を飲み下した俺が放った言葉に、武井は、
「俺犬じゃないですよ」
 と口答えした。武井のくせに。
「お手!」
「はい!」
 俺が差し出した右手に、もはや反射と言っていいレベルの速度で左前足が乗る。
「ええっ!?」
 武井は自分で自分の行動に驚いているが、てめえの俺への懐きっぷりを思えばなんの不思議もないわこの大馬鹿。
――散歩、行きたいな」
「は?」
「変身したお前の首にリードをつけて夜の街を散歩したい」
「犬じゃないですってば」
「おかわり!」
「はいっ……あああ!」
 左手に右前足が乗る速度もさっきといい勝負だ。「渡辺さんが『お手』って言ったらお手しそう」という、とある女子による武井評はこの上なく的確なものだったことが本日証明された。

 武井は、しばらく頭を抱えていた。
 が。
 やがて、上目遣いにこちらを見ながら、言った。
「お、俺も、先輩となら……、散歩、したい、です」
 だいぶ毛深くなったな、顔。唐揚げは惜しいが、二足歩行ができるうちに出ていった方がいいだろうな。
「ド●キに首輪って売ってると思うか?」



 その後、満月の夜には大きな大きな「犬」を連れて散歩に行くのが俺の日課……いや、月課になった。
 満月以外の夜の過ごし方については――、ご想像にお任せする。


−終−