ストレイ・ウルフ (2)


 パンをすっかりたいらげた俺の背を、彼はまた撫でてくれた。
「おまえ、おっきな足してるなあ。きっとおっきな犬になるんだな」
 お腹も落ち着き、あたたかい膝の上で、ようやくひとときの安らぎを得た俺だったが。
 しばらくすると、彼は俺を膝から胸に抱き替えて、立ち上がった。
「……うーん。どうしたらいいかな」
 その一言に、また不安が蘇った。
 彼は俺をどうするんだろう。俺は家に帰れるんだろうか。元の姿に戻れるんだろうか。
 その時だった。俺の耳は、どこかで俺の名を呼ぶ、かすかな音を拾った。

 ――お母さん!

 俺は男の子の腕から飛び降り、声のした方向に耳をそばだてた。やっぱり、聞こえる。俺はそちらに向かって、必死で返事をした。傍からはキャンキャン鳴いているようにしか見えなかったと思うけど。
 しばらくして、遠くからこちらに走ってくる「犬」と、そのリードを掴んでいる俺の母親らしき姿が見えてきた。
「おむかえ来た?」
 その声に俺は振り向き、そうだと答えた。彼には「ワン」としか聞こえなかっただったろうけど。
「よかったな。早く戻りな」
 俺の命の恩人は、優しく笑って、頭を撫でてくれた。

 一目散に走り出した俺は、見たことのない大きな「犬」に半ば引っ張られるようにしてやってきた母親の胸に泣(鳴)きながら飛び込んだ。
「なっちゃん!? なっちゃんね!? 良かった!!」
 俺を抱きしめた母も涙を浮かべていた。余談だが、「なっちゃん」は俺の子供時代の呼び名である。本名は「武井 なぎ」。命名の由来を聞いたことはないが、だいたい想像はついている。
 もう一つ余談だが、「犬」は俺の父親だった。ポチ太郎の尋常でない剣幕に驚いて外へ出た母は、庭に散乱した俺の衣服に事態を察知し、満月の日の篭もり部屋である地下室から大慌てで父を呼び出した。泡を食った父は久しぶりに変身して、暴走しないよう必死に己を律しながら、警察犬まがいの捜索活動をする羽目になったのだ。しかし、やっとの思いで探し当てた息子は狼の姿の自分には目もくれず、知らないのだから仕方ないと頭では理解しつつも、少なからずショックを受けたらしい。
「どこも怪我はない? 大丈夫?」
 心配する母親に、あのお兄ちゃんが助けてくれた、と言おうとして(言えないのだが)振り向いた俺が見たのは、男の子が、ちょうど迎えに来た車に乗り込む姿だった。

 あ、待って!

 慌てた俺は母親の腕から飛び出して走ったが間に合わず、遠ざかる車の中から彼が手を振るのを見送るばかりだった。


 後から、あの公園の隣が学習塾で、男の子はそこの生徒だったようだと聞いた。親御さんの迎えを待っている時に、俺を見つけたのだろうということだった。
 時間にすればおそらく、ほんの二、三十分の出来事だった。でもその印象は俺の心に強烈に刻み込まれて、俺はまた彼に会いたいと強く願った。しかし、人間に戻った幼稚園児にできることはなかった。あの場所までの道順も覚えていなかったし、親は「万が一にも秘密が漏れるようなことがあってはならない」と、どんなに頼んでも連れて行ってはくれなかったのだ。そして、満月の夜には厳重に見守られるようになってしまった。


 その後俺も成長し、自分が狼男であるという事実と、それが世間一般には受け入れられないのだという現実を認識した。そして、親に「あの子に会いたい」と言うのを止めた。
 でも、彼のことを忘れたことなどなかった。


 それは、本当に本当の偶然だった。
 高校二年生の夏休み。友達に誘われ、とある大学のオープンキャンパスに同行した。そこは自分にはだいぶ無理目なランクのいわゆる名門大学で、俺はただの冷やかしで終わるはずだった。だが。

「えっ」

 俺は狼男なので、人間の状態でも普通の人よりずっと鼻が効く。そこで俺は、文字通り「嗅ぎつけた」のだ。あの子の匂いを。
 驚き、慌てて辺りを見回した。そして、見つけた。
 後ろから歩いてくる三人組の大学生。そのうちの一人が、彼だった。すっかり成長した姿、理知的で賢そうな顔立ちにはしかし、あの頃の面影が残っている。実年齢以上の落ち着きを感じさせるたたずまいはそのままで、俺は彼があの恩人であると確信した。
「しっかし渡辺、マジで同じ一年とは思えんわー、あの落ち着いた交渉っぷり」
「あっちの代表だんだん無口になってたもんな! すっげえスカッとした」
「俺は現実的な解決方法を提案しただけだが」
 彼は仲間と話しながら、当然のことだが俺には全く気づかないままに俺たちの横を通り過ぎ、何かの建物の中に入っていった。

 急に固まってしまった俺に、友達が訝しげに「どうしたんだよ」と言った。
――俺、ここ受ける!」
「……は? え、ええ!?」
「絶対受けるから!!」

 俺は彼に会いたい、彼と同じ大学に行きたい一心で、一夜にして周囲が目をむくような変貌を遂げた。急遽予備校の夏期講習に申し込み、残りの夏休みを勉強漬けで過ごした。休みが明けてからは真面目に授業に取り組み、予習復習を欠かさず、予備校通いも始め、先生や講師を質問攻めにした。一年経つ頃には、それまで中の下〜下の上あたりだった成績を学年10位以内にまで押し上げ、担任にミラクルと言わしめた(英語教師だった)。

 そうしてこの春、俺は晴れてこの大学の門をくぐったのだ。



 話を聞き終わった渡辺先輩は、大根の最後の一切れを、燗酒の最後の一口で流し込んで。
「……ストーカー?」
 と言った。

 がーん。
 俺、ストーカーだったのか! あんなに頑張ったのに!

 先輩は本気でショックを受けている俺に、「冗談だ」と笑った。
 そして。
「大きくなったなあ、お前」
 あの時と同じ顔で、頭を撫でてくれた。

 その瞬間、いろんな想いが一挙に、わっと押し寄せて。
 胸がいっぱいになった俺は、奇跡的に再会できた俺の大事な大事な大事な人に、思いきり抱きついてしまった。


 でも、俺はもう子供ではなかったので。


――――バカ犬」
 抱きつくだけじゃ全然足りなくて、結局、怒られた。


−終−