ストレイ・ウルフ (1)


「武井お前、なんで俺にそんなに惚れた?」
 急な冷え込みを口実に、コンビニでおでんその他を買い込んで一人暮らしの渡辺先輩のアパートに上がりこんだ夜。ベッドを背もたれにした俺の愛する人は、大根をつまみにレンジで燗をつけた安酒をちびちびやりながら、「ずっと聞こうと思ってたんだが」と前置きをして、そう続けた。
「俺は自分がとっつきやすい人間じゃないっていう自覚があるんだが、お前は初対面からすぐに懐いたよな。だからもともと人懐こい奴なんだろうと思ってたら、そうでもないみたいだし」
 そう、俺はどちらかというと人見知りな方である。でも先輩のことは、サークルに入会して、顔を合わせた時点からもうひたすらに慕っていた。自覚はなかったが周囲には「好き好きオーラ垂れ流し」と認識されていたらしいくらいに。
 もちろん、それには理由がある。でもそんなに軽々しく口にするわけには……ん?
 あ、そうか。もう、言ってもいいんだ。ばれてるんだから。
「先輩。小学生の時、迷子の子犬にパンあげましたよね?」
――あれ、お前だったのか」
 さすが俺の渡辺先輩。察しが良すぎる。



 あれも、ちょうど今時分の季節の話だった。日が暮れるのが早くなり、木々の葉が色づき落ちて、風が寒さを含んでくる頃。
 俺はまだ五歳。年長組さんの一員として、毎日なんの悩みもなく、へらへら幼稚園に通っていた。たぶん(あんまりよく覚えていない)。
 俺たち一族の男子は、満月になると狼男に変身する能力を持っている。だが、その能力が発現するのは通常、ある程度人間としての体が成長してからで、だいたい中学生くらいが普通らしい。しかし、当然のことながら、生物は機械と違って皆が均一に生産されているわけではない。その機械にすら例外が出るのだから、生き物ならばなおさらのこと。なんと俺は、齢五歳にして初めての変身を遂げてしまったのだ。


 事件は、母が夕飯の支度をしている最中に起こった。
 ごく普通にトイレに行った俺は、用を足し終わった後、窓から差し込む月の光に気づき、何か、ひどく胸騒ぎを覚えた。そして、トイレから出るとリビングには戻らず、玄関のドアを開けてしまったのだ。
 そのまま、光に導かれてふらふらと小さな庭に回ると、かなり暗くなった空のまだ低い位置にある、大きな大きなまんまるいお月様が、視界に飛び込んできた。
「…………」
 魅入られたように目が離せずにいたら、そのうち、頭がぼんやりしてきた。

 ……ん?

 何かおかしい。
 服がもたつく。
 体が、ぐにゃぐにゃする。

 気がつくと、俺は自分の着ていた服に埋もれていた。

 えっ、えっ。

 もたもたと布地をかいくぐって、なんとか脱出したところで目に入ったのは、毛の生えた、鋭い爪のある前足。


 ――――――――――!!!???


 まさか幼稚園児で変身するなどと思っていなかった両親は、俺に一族の秘密をまだ明かしていなかった。明かされていても理解できたかどうかはわからないが、とにかく、俺は何の予備知識もないまま、狼の姿になってしまったのだ。
 変身後の狼の体は、人としての肉体の成長具合に相応したものとなる。なので俺は、自分の服に埋もれてしまうようなちんまりした子狼に変わっていた。ドアを開けようにも、この姿ではドアノブに届かない。母を呼びたくても、口から出てくるのは子犬のような甲高い鳴き声ばかり。
 すっかりパニックに陥った俺は、家の敷地の外に出た。それがいけなかった。
 突然、弾けるような恐ろしい怒号が俺を襲った。お向かいの番犬、ドーベルマンのポチ太郎が俺の姿を認識するや、ものすごい勢いで吠えついてきたのだ。鎖をガチャガチャ鳴らし、今にも跳びかからんばかりのその形相に俺の混乱と恐怖は最高潮に達し、闇雲に街中へと走り出してしまったのである。

 これが幼稚園児ならちょっとした騒ぎ、大きな狼なら大騒ぎだったろうが、幸か不幸か、傍目には迷子の子犬がうろうろしているようにしか見えない状態だった。たまに俺を気にかけてくれる人もいたが、混乱している上に人見知りの俺には、知らない大人は怖いばかりで、助けてもらおうなんて思いつきもしなかった。散歩中の犬に吠えられたり、猫にまで威嚇されたりして、あっちへ逃げ、こっちへ逃げしているうちに、すっかり道に迷ってしまった。
 そうして、もうくたくたになった俺の目に、小さな児童公園が映った。どこか、静かなところに隠れたい。俺はその一心で園内に入り込み、目についた遊具の下にもぐりこんだのだ。

 辺りはもうすっかり暗くなり、外灯が一つ、寂しい明かりを落としていた。物陰に隠れてうずくまって、俺はやっと一息つけた。でも、何をどうしたらいいのか、全然わからない。途方に暮れている間にも気温は下がっていき、風も出てきた。夕飯も食べずひたすら走ったから、お腹もものすごくすいていた。寒くてひもじくて怖くて悲しくて、縮こまってぶるぶる震えていた、その時だった。
 吹きつけてくる風が不意に止んで、何か影が落ちてきた。でも、もう逃げる気力もない。やっとの思いで顔を向けると、すこし離れたところに、こちらを見ている人間がいた。
 男の子だった。
 俺よりちょっと上くらいの歳に見えるその子は、じっと俺を見つめながら、ゆっくり膝を折った。
 彼はしばらく動かずに、俺の様子を見ていた。そうして、口を開いた。
「おい、わんこ」
 それは、友達に話しかけるような、ごく何気ない口調だった。それまで大人にしか出会っていなかった俺にとって、とても安心できる、自然に受け入れられる声だった。
「おまえ、迷子? 捨て犬?」
 何か返事をしたかった。でも、出るのは「キュウン」という情けない鳴き声だけ。
「おいで」
 しゅんとする俺に、男の子は手招きをしてくれた。恐る恐る、近づく。彼は俺を怖がらせないような優しい動作で、膝の上にそうっと抱き上げてくれた。
「うわ、冷て」
 背中を撫でるあたたかい手が、がちがちに固まっていた俺の体の緊張をほぐしていく。彼はしばらくそうして俺をあたためてくれていたが、ふと、思いついたように口を開いた。
「おなか、すいてるか? パン、食べる?」
 「パン」という言葉に俺がぴくりと反応すると、彼は脇に置いてあったかばんからパンの入った袋を取り出し、結んであった袋の口を開いた。空腹に沁みるような匂いが鼻をついた。
「すごくおなかがすいてたんだな、おまえ」
 感心したように言われるほど、一心不乱にがつがつ食べた。たぶん彼のおやつなんだろう、何も入ってないただのスナックパンが、すごくすごくおいしかった。