国指定史跡
出島阿蘭陀商館跡
長 崎 奉 行
寛文長崎図屏風(左)
寛文長崎図屏風(左隻) 1661〜1673年頃の長崎。画者不詳。(長崎市立博物館所蔵)
 右の方の海岸に出島があり、その左の岬の丘に奉行所西屋敷があります。左の方の山裾に立山役所があります。その間の町通りに、くんちの蛇踊りとそれを見物ために出島を出たオランダ人達が描かれていて、 くんちにはオランダ人も出島を出ることが許されていたことがわかります。
 16世紀中頃、長崎は大村純忠の領地で、現在の夫婦川町一帯(屏風図左隻左上隅付近)に家臣長崎甚左衛門純景の居城・桜馬場城と城下村がありました。1567(永禄10)年に修道士アルメイダが長崎に来で布教し、長崎はキリスト教が盛んな町として発展を始めました。1570(元亀元)年に長崎はポルトガル貿易港として開港しました。1571年3月から長崎の岬に町造りが始まり、8月にはポルトガル船2隻が入港して貿易が始まりました。岬には島原、大村、平戸、横瀬浦、文知、外浦の6町が生まれました。
 町の発展とともに、佐賀の竜造寺、深堀の深堀氏などとの紛争が起こるようになり、1580(天正8)年に長崎は茂木と共にイエズス会に寄進され、1584(天正12)年には有馬晴信によって浦上の地がイエズス会に寄進されました。長崎はキリシタンの町、南蛮貿易の港として繁栄を誇り、町には多くの教会が教会が建ち並んでいました。ポルトガル人達は町に自由に住み、交易を行っていました。
 長崎がイエズス会領であることを知った豊臣秀吉は、1587(天正15)年にこれを没収して公領とし、1592(文禄元)年からは長崎奉行を設けて治めさせました。初代の奉行には唐津領主寺澤志摩守が任命され、役所は本博多町に構えられました
 徳川幕府の時代に入り、鎖国政策が進むと共に、貿易管理とキリスト教禁教策を推進するために、1634(寛永11)年、当時長崎における有力者であった有馬休庵、高木彦右衛門など25人に命じて、人工の島を築かせました。工事は1636(寛永13)年に完成し、出島(築島)と称されました
 当初、出島はポルトガル人を収容し、ポルトガルとの貿易のために築かれましたが、1637(寛永14)年に起こった島原の乱により、幕府はポルトガル人に対して警戒を強め、1639(寛永16)年にポルトガル人を追放しました。
 一方、1600(慶長5)年、オランダのデ・リーフデ号で豊後(大分県)に漂着した航海士のウイリアム・アダムス(後の三浦安針)は、徳川家康に優遇され、外交顧問として活躍しました。アダムスの招きにより1609(慶長14)年にオランダは2隻の交易船を派遣し、平戸に商館を開設していました。
 ポルトガル人が追放されて出島が無人となると、出島を築いた長崎の有力者の訴えにより、幕府は1641(寛永18)年に平戸にあった和蘭商館を出島に移しました。以来「出島」は江戸時代の鎖国期における、日本と西欧を結ぶ唯一の窓口であり、経済、文化、学術の交流の拠点として、我が国の近代化に多大な貢献をしてきました。 出島は1858(安政5)年、日米修好条約が締結されて和蘭商館が廃止され、翌年1859(安政6)年に長崎、神奈川(横浜)、箱館(函館)が開港されました。出島は223年の間保った「鎖国の唯一の貿易港」としての役を終わりました。
 慶応2年(1866)に出島が外国人居留地に編入されると、急激にその姿を変えていきました。
 明治に入り、出島周辺の埋め立てが進み、築造当時の海に浮かぶ扇形の原形は失われ、1897(明治30)年からの7年がかりで行われた長崎港湾改良工事により、出島は完全に姿を消してしまいました。しかし、その歴史的重要性から大正11年10月12日に「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されています。
 築かれた出島は扇型で大きさは、周囲286間2尺9寸、総面積3,969坪1分(約15,395平方メートル)と記録されています。周囲を塀で囲み、市街地とは北側の中央付近から対岸の江戸町に架けられた橋で結ばれていて、その出入りについてはオランダ人はもちろんのこと日本人にも制限が設けられてていました。
 出島の内部には商館長、商館員等の事務所や住宅、各倉庫、日本人役人の使用する建物等が数十棟建ち並び、家畜が飼われ珍しい植物等も植えられていました。
 出島に滞在を許された商館員は男性に限られ、女性の滞在は許されませんでした。商館員は商館長(カピタン)、副商館長(ヘトル)、台所役、蔵役、医官(上外科医、下外科医)、筆者などと大工、鍛冶 などの工作技術者などがいました。秋にオランダ船がバタビアに向けて出航すると、出島には10人ばかりの商館員が残留するばかりでした。翌年夏にオランダ船が入港するまでの間には、貿易に関する仕事や江戸参府などを行っていました。
 出島は長崎奉行の管理下にあり、その下に貿易の監督、出島で働いている日本人の監督、指導や、出島に出入りするための門鑑(通行許可書)の発行を行う出島乙名がいました。出島には、オランダ通詞、組頭(くみがしら)、日行使(にちぎょうし)、筆者、小使、日雇頭、火用心番、探番(門番)、買物使、 料理人、給仕、船番、番人、庭番など、多くの日本人が働いていました。 コンブラ瓶
 橋を渡った対岸の詰め所には、出島から出ることを禁止されていたオランダ人に代わって、オランダ商館員の日常生活に必要な食物などを買い求める、17人の買物使がいました。彼らはコンブラ仲間と呼ばれていましたが、その名はポルトガル語のコンプラドール(仕入れ係)由来します。コンブラ仲間は後に出島を通して醤油や酒を陶器の瓶に詰めて輸出するようになり、その陶器の瓶をコンプラ瓶とよばれています。(コンプラ瓶(長崎市教育委員会所蔵)→)
牛の骨出島から出土した牛の骨
 平成11年7月、江戸時代後期の地層から牛の骨が発掘されました。発掘された場所は、出島の木の近くの当時畑や花壇とされていたと思われる所です。牛は若い固体で、料理するために解体したものではなく、病気などで死んだ牛を埋葬したものと考えられます。骨は少なくとも5頭分あります。
現在の出島(2000.April)ミニ出島
2000(平成12)年4月の出島
一番船船頭部屋、一番蔵、二番蔵、ヘトル部屋、料理部屋の5棟が復元されました。 川のほぼ中央から電車通りまで、向こうは橋までの一帯に、かつて「出島」がありました。一番船船頭部屋の手前に、当時の護岸の石組が掘り出されています。
出島の模型(実尺の1/15)
長崎大学経済学部武藤文庫の伝川原慶賀の「長崎出島之図」をもとに、1976〜7年に造られました。島の大きさは、周囲286間2尺9寸、総面積3,969坪1分(約15,395平方メートル)と記録されています。
出島は周囲を塀で囲み、市街地とは北側の中央付近から対岸の江戸町に架けられた橋で結ばれていて、その出入りについてはオランダ人はもちろんのこと日本人にも制限が設けられてていました。
発掘された当時の護岸(石垣)
石垣の高さは約3メートル。残存部分1.2メートル、補修部分1.8メートル。
西側護岸南東側護岸
西側護岸
南東側護岸
明治時代の洋館
旧内外クラブ出島神学校
旧内外倶楽部(クラブ)
T.B.グラバーの息子の倉場富三郎、荘田平五郎などの発起人によって、居留地が廃止された明治32(1899)年に、外国人と日本人の友愛と相互理解を深めるための社交の場として「長崎内外クラブ」が設立されました。建物は明治36(1903)年にF・リンガーによって建てられた英国式明治洋風建築です。
出島神学校
明治8年に建設された出島教会に隣接して、明治11(1878)年に英学校として建設され、明治16(1883)年に出島聖公会神学校となりました。 当時は西側(左側)部分に鐘塔を有する木造2階切妻造りの優雅な洋風建築でありましたが、 明治22年に隣接の教会が解体され、その跡も含め明治26年東側に増築され、 現在の姿になりました。明治の初期に建築されたキリスト教新教関係の遺構としても重要な意味を持ち、 また幕末から明治にかけての出島の変遷を物語る貴重な建物でもあります。
所在地長崎県長崎市出島町
アクセスバ ス:長崎バス本社前から徒歩3分
電 車:出島から徒歩1分
史跡指定年月日1922(大正11)年10月12日
[資料の使用については長崎市立博物館、長崎市教育委員会(出島復元整備室)の許可を得ています。写真、説明文の複製、転用を禁じます。]
(2000.Nov.10作成,2001.Aug.07加筆)
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