長 崎 奉 行
岬のサンタ・マリア教会
山のサンタ・マリア教会
現在の出島
 出島和蘭商館跡(川の手前)と長崎奉行所西役所跡(現在は長崎県庁)。中央の道路の奥の山裾に立山役所がありました。
 1570年(元亀元年)に長崎はポルトガル貿易港として開港し、長崎の岬に新しい町が開かれました。岬の先端(現在、県庁があるあたり)にはフィゲイレド神父が「岬の教会」と呼ばれる小さな教会を建てました。町の発展とともに、佐賀の竜造寺、深堀の深堀氏などとの紛争が起こるようになり、1580(天正8)年に長崎は茂木と共にイエズス会に寄進され、1584(天正12)年には有馬晴信によって浦上の地がイエズス会に寄進されました。長崎はキリシタンの町、南蛮貿易の港として繁栄を誇り、町には多くの教会が建ち並んでいました。ポルトガル人達は町に自由に住み、交易を行っていました。
 長崎がイエズス会領であることを知った豊臣秀吉は、1588(天正16)年にこれを没収して公領とし、1592(文禄元)年からは長崎奉行を設けて治めさせました。初代の奉行には唐津領主寺澤志摩守広高が任命され、役所は本博多町(現在の万才町、NTT長崎支店のあたり。役所の所在場所は確定されていません。)に構えられました。 しかし、広高自身は在勤せず、家臣を長崎に派遣して治めさせていました。本人自ら勤めたのは2代小笠原一庵為宗からで、以後1868年1月に長崎から引き上げた125代河津伊豆守祐邦まで続きました。
西役所 立山役所
西役所の図 立山役所の図
 寛永10(1633)年の火災以降、江戸町(県庁のあるところ)にあった奉行所が寛文3(1633)年にまた火災で消失しため、再建の際に東手に東屋敷を新設し、東西両屋敷を奉行所としました。
 さらに、延宝元(1673)年に、時の長崎奉行牛込忠左衛門によって東屋敷が立山(現在、県立美術博物館がある所)に移されたため、江戸町の役所は西役所と呼ばれるようになりました。
 長崎奉行は老中に直属する遠国奉行の一つで、直轄領長崎の支配のほか長崎での外交交渉、貿易、幕府上納を含む財政運用、文化交流や西国全域のキリシタン禁圧、長崎警備、抜荷、海警の指揮および全国規模での銅、海産物などの集荷流通などと管掌は多岐にわたりました。初めは定数1人で、南蛮船入港前(6月頃)に来崎し帰帆後(10月頃)に江戸へ帰っていましたが、後2〜4人になり、半数が長崎に滞在して執務しました。
 当初、奉行には国持ち城主が任ぜられましたが、2代からは200俵ほどの小身の武士となり、のち1,000〜2,000石位の旗本が任ぜられました。1690(元禄3)年に諸太夫席の格式となりました。西役所は、外交および貿易の事務管理がおもな役目でした。
 1626(寛永3)年に目付から長崎奉行となった水野河内守守信は踏絵を始め、キリシタン弾圧を厳しくしました。1629(寛永6)年に長崎奉行となった竹中釆女正重義は、浦上に隠れていたキリシタンを狩り出し駿河問の拷問にかけるなど残酷であったが、寛永10年に私曲(自分の利益のため)により切腹させられました。
 1783(天明3)年に大阪町奉行から長崎奉行になり、約1年間勤めた土屋駿河守守直の墓は長崎の春徳寺にあります。また、1812(文化9)年から1816年まで長崎奉行を勤めた遠山左衛門尉景晋はよく知られています。
立山役所跡立山役所跡碑
立山役所跡、県立美術博物館。県立美術博物館の一角にある長崎奉行所跡の碑
立山役所跡の池立山役所の池の跡
 長崎県立美術博物館の裏手に残る池の跡。岩盤を掘り込んだ珍しい構造となっていて、 2つの岬が表現されています。
 立山役所の図の中央に所在が記載されています。
サンタマリア教会跡
山のサンタ・マリア教会跡
 1590(天正18)年ごろ建てられた小聖堂が1603(慶長8)年に増築され、大きな教会となりました。白亜の美しい建物で、入港するポルトガル船の目印になっていました。岬の被昇天のサンタ・マリア教会に対して、山のサンタ・マリア教会といわれていました。 1605年、最初の小教区となりましたが、禁教令により1614(慶長19)年11月8日に破壊されました。

[長崎奉行所西役所、立山役所図面等の使用については長崎県立図書館の許可を得ています。写真、説明文の複製、転用を禁じます。]
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