北京音楽留学体験記
by てんてん

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(2002/4/29)
第十七話:「<懐郷行>その一の巻」


 さて、この頃のレッスンはというと、基礎練習に加えて、少しずつ、Z老師にとって意味のある曲を少しずつ習っておりました。
 Z老師は”意味がある”ということを重要に感じておられたようでした。それはその人に取って大事な曲かどうかということです。心情がフィットできるとか、情景が思い浮かぶとか、自分と曲との繋がりを重視されていました。
 その際には必ず、
「私にとっては意味があるが、君には意味があるかはわからない。けれども、それを伝えたいと思うのだけれども、どうする?」
と聞いてくれました。
 一般的に、音楽を勉強する時には曲の難易度とか、なにがしかの順番があって、先生もそれになぞって教えることが多いような気がしていました。
 現役の演奏家の先生方はなんでも教えることができるという姿勢を持って、決して、できないと言われることはありませんでした。特に若手の演奏家の先生は、自分の今取り組んでいるものを教えようとよくひいて下さいました。また、教育家の先生は、基本に厳しく、その人に合うような曲の提示をしてくれていたように思います。
 どの先生も、自分なりの考え方があって、先生によって、教え方は千差万別でしたが、情熱という点ではどなたも一歩もひけをとらない感じで、受ける私の方も常にぎりぎり精一杯の所で、踏ん張りながら、ついていったという具合でした。たぶん、中国で、或いは日本でも中国人の先生に学ばれた方は、同じ思いを持ってられると思います。

 その中でも、Z老師は年輩であったこと(二胡の歴史の生き証人的な存在)もあり、私はただ与えられるという受け身的な学び方ではなく、経験を引き継ぐというような何か重要なことを学んだような気がしています。
それだからこそ、一曲一曲が生まれてきた由縁や、いろんな奏者がどの曲に愛着を持っているかとか、自分はどうだろうかと考える習慣がつきました。
そういう習慣が自分は自分の人生において、どういう曲をひいて行きたいか、どこまで技術を高めたいか、どういう音楽人生を歩みたいかということを考える手がかりになりました。

 <懐郷行>という曲は、同名のものがいくつかありますが、この曲は陸修棠という作曲家が1930年代に作曲した曲と言われています。その当時は、東北地方には日本軍が、中原では軍閥が、という状態で中国国内は混乱していた時期であったのでしょう。
 Z老師の説明によると、この当時、上海の陸修棠が戦渦の中で一時的に四川の方の音楽学院へ指導に出かけて行って、作られた曲だと説明して下さいました。上海を離れざるをえない戦争の状況であり、そして、故郷を離れ、遠くにあって、故郷を思う気持ちをまるで、作曲家のようにそして、自分になぞるようにお話してくださったのが印象的でした。
 この時代の話しになると、必ず抗日戦争ということを避けることができません。日本人として、中国音楽、二胡のような近代で発達したような楽器、楽曲を勉強するものにとっては、この題材とどう取り組むかということは重要に思っています。
 その話から、Z老師はご自分の戦争の体験について語られたのでした。Z老師は無錫の田舎の生まれで生家は農家を営んでいたということです。小さい頃、日本軍がやってきて、自分が大事に育てている豚を取って行こうとした所を、日本兵の足にくらいつき、殴られた話をして下さいました。

 その話を聞き、私の複雑な表情を見たZ老師は、
「そういう時代もあったんだよ。でも、今はこうして、君のように(二胡を)学ぼうとしてくれる人がいて、僕はとってもうれしいんだ。」
と逆に慰められたような形になってしまいました。
 そして
「君は今、故郷を一人離れて、家族を思い、いつの日か帰ることを考えているだろう。その気持ちは、理解できるはずだ。」
と付け加え、レッスンが始まることになりました。
 その内容は次回の続きの巻きで。

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