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(2002/8/7) 第二十話:「晴れて転校の巻」 てんてんです。最近、この体験記の感想や励ましを複数の方から頂きました。 メールのアドレスがわからないので、お返事ができない方もいらっしゃいました。 この場をかりて、感謝しておりますとお伝えしたいです。 さて、この頃、日本では、私の感覚でいうと、涎ものの演奏会が目白押しですね。 昔は関西の方は少なかったですし、なかなか有名な演奏家の演奏を間近で見るチャンスはやはり少なかったと思います。これが、留学する大きな目的でもありました。 ならば、別に音楽学院でなくてもよいはず。でもどうしても、音楽学院へ行きたかった理由は、学内の図書館のお宝(楽譜や古い録音)をどうしても見てみたい、聞いてみたいという欲望からでした。 さて、その欲望は満たされたでしょうか???? いろいろな心配事を乗り越え、取りあえずは、語学学校から、ZY音楽学院の留学生楼に引っ越し完了した所から、お話をすすめていきます。 ここまでの道のりは長かったですが、ここからがまた長いのです。 転校にはいろいろと手続きが大変でしたが、これまでに得た教訓は。 教訓:中国ではひとつ何かをしようとすると3つの困難がある。 ということを常に頭において、ことをすすめるべきだと心に誓いました。 さて、留学生楼はZY音楽学院の西門を入って、南側にありました。 一階はなぜか銀行で、招待所と呼ばれている一般の人の宿泊施設や、付属小学校の寮などがありました(今はないですよ)。 留学生楼の印象(97年時点)は、改装した直後なので、見た目はきれいなんですが、ちょっとしたことが不便だったり、壊れていたりする。たとえば、トイレの水がよくでないとか、シャワーの水は鉄色とか。それでも、部屋は一人部屋にしたので、部屋ではほっと一息つくことができました。 その頃、留学生楼では、台湾の学生さんがたくさん受験準備のために生活していて、その他は香港、マレーシア、インドネシア、シンガポール、韓国、ロシア、ドイツ、そして日本という人々が集まって生活をしていました。 この生活によって、アジアでの日本のおかれている立場や、その他の国々のいろんな事情を知ることができ、これだけでも、留学する価値があるような気がしています。 食事はその当時、学院の南側に中高部の食堂と、小さいレストランがあり、学院の東側には大学の食堂と、これまたレストランがありました。 東門を出ると、昼の弁当やさんもあり、市場もすぐ近くにあったので、食べることには不自由はありませんでした。 レストランには常に有名な演奏家や指揮者などが家族団らんや仕事で利用していて、どこに行っても音楽から離れることがない音楽天国でありました。 今、2002年、東門はほぼ閉鎖され、市場があった所はなんと広い道になってしまい、かつての生活感のあるにぎわいはなくなってしまいました。 北京はここ数年の間に、区画整理のもとにたくさんの胡同が壊され、町並みがすっかり変わってしまいました。 その頃、何より珍しかったのは、学校の敷地内に先生方や事務の方、あんまり関係ない方まで住んでいるということと、音楽関係のお店やさんができてはつぶれというのを繰り返していました。 今では、先生方などの住居は敷地外に移され、先生の家に通うのが面倒になったと友人たちはぼやいていました。 次には学校が始まってからの落ち着かない生活についてお話しようと思います。 |
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