日高見国から

(日高見国)北上地方の歴史

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呰麻呂の反乱 プロローグ 
(あざまろ) 
 大化改新(645年)が始まり、律令国
家体制の強化を図ると共に、朝廷側の外交
事情も加わり、エミシの征服に乗り出しま
した。

 それは7世紀始めに聖徳太子の対中国政
策で、「百済・新羅の両国を従える国だ」
として、中国の支配の外にある大国の扱い
を受けていました。

ところが、7世紀半ばから新羅が強大化し
大和朝廷と衝突し、両国を自国の属国だと
主張する事が難しくなり、その代わりに当
時朝廷に従わない東北地方を属国として扱
う事を考えたのです。

 斉明天皇4年(658年)「阿倍比羅夫
」が秋田・能代地方のエミシ遠征に向かい
ました。しかし在地の住民は一戦を交える
事無く降伏しました。翌年(659年)遣
唐使に二人のエミシを同行させ、中国皇帝
と会見しています。「蝦夷には三種有り、
遠くを津加留(つがる)、次を麁蝦夷(あ
らえみし)、もっとも近くを熟蝦夷(にぎ
えみし)と言う」とあたかも大国を従えて
いる様に見栄を切っています。

 658年の渟足柵(ぬまたりのさく)の
造営をはじめとし、
767年の伊治城完成の約100年の間に
、朝廷は陸奥・出羽の各地に侵略の拠点と
なる柵(時代が下ると城と呼ばれる)を作
り、全国各地から柵戸(さくと)と呼ぶ人
々を移民させ、土地の開発とエミシと呼ば
れる人々の懐柔を図り、従うエミシを「俘
囚」とよんで階位(かいい)を与えたりし
ていました。

  

 その中に「道嶋(みちしま)」一族がい
ました。この一族は、陸奥国牡鹿郡(みち
のくおしかごおり)出身の「丸子嶋足(ま
るこしまたり)」がいち早く朝廷に帰属し、
武芸をかわれて「牡鹿連(おしかのむらじ
)」の姓をもらい「道嶋」と改名し、更に
757年の「橘奈良麻呂(たちばなのなら
まろ)」の乱で大手柄を立て770年には
宿禰(すくね)のカバネを持ち、近衛員外
中将の地位まで出世し、貴族の仲間入りを
していました。

 この頃の朝廷は「藤原氏」と「道鏡」の
権力闘争が起こっており、地方官、特に陸
奥守を勤めている「田中多太麻呂(たなか
おおたまろ)」(764〜769)や「石
川名足(いしかわなたり)」(769〜7
71)は自分が中央に戻った時の出世の糸
口とするため、無理をして業績を上げよう
とし、民衆の反感を増加させていました。
道嶋氏はこの陸奥守の手足として働いてい
たのでした。

 この770年8月に伊治城の支配下に有
った「宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみう
くはう)」が一族を引き連れ「賊地」に去
ったと有ります。この時「いずれ桃生城を
攻め落としてやる」と捨てぜりふを残した
為、 石川名足は慌てて「道嶋嶋足」に命
じて呼び戻そうとしたが果たせなかった。

 朝廷から(公)のカバネ与えられている
のは、俘囚の中の有力者や実力者であった
筈で、朝廷の元で平和に暮らすつもりが、
全国から移住して来た人々や、官僚の嫌が
らせに耐えかねて北の未開地に去ったもの
と思います。特に同じ仲間でありながら、
貴族的振る舞いを行っていた「道嶋氏」の
説得など聞くはずもなく、この離反を機に
「俘囚」と呼ばれる人々の中に独立の機運
が高まっていったのです。

呰麻呂の反乱

 「道嶋氏」は牡鹿郡の出身であるが、早
期に朝廷に従い出世を重ねていましたが、
もともとは伊治氏の支配下にあった豪族と
思われます。
 
 しかし、「伊治氏」は伊治城が造られた
767年頃に朝廷に従ったもので、牡鹿・
桃生・伊治地方で最強というプライドが有
りました。「伊治呰麻呂(これはるのきみ
あざまろ、又はいじのきみあざまろ)」は
777年の「紀広純(きのひろずみ)」の
軍事行動に従い翌778年「吉弥侯伊左西
古(きみこのいさしこ)」と共に外従五位
下を与えられておりましたが、昔は家来筋
であった「道嶋一族」の一人である「道嶋
大楯(みちしまおおたて)」が朝廷官僚と
しての思い上がりから蔑む態度を変えず、
「紀広純」もそれに同調していたようです
    その鬱憤を爆発させたのが780年の事
です。陸奥守になっていた「紀広純」が何
度かの強引な軍事行動をとり続けた780
年に、伊治城より北に位置する覚べつ城の
造営を始め、その指揮の為に多賀城を出発
し、伊治城で一息着いていた時、引き連れ
ていた俘囚の兵士が「呰麻呂」の指揮の元
に「道嶋大楯」と「紀広純」を殺害したも
のです。

 この反乱はいわば地元出身の俘囚豪族と
各地から移住して来た俘囚豪族のいがみ合
いと、朝廷の官僚政策失敗が重なって招い
たもので、もともとは朝廷から官位をもら
って従っていた地元豪族がなぜ背いたかを
推測することなくただ軍事力だけで解決出
来るとした朝廷側は、これから約100年
に渡りエミシに軍事的に対するとは思わな
かったでしょう。

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