日高見国から

(日高見国)北上地方の歴史

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阿弖流為(アテルイ)


 昨今の縄紋ブームは、三内丸山の発掘を
見るに従ってピークになって来た様ですが
、そのちょっと前にNHKの大河ドラマ「
炎立つ」(高橋克彦氏原作)の前半で阿弖
流為の登場があり、藤原3代に繋がるよう
に進行して行きました。

 日本の古代歴史上欠くことの出来ない重
要な人物であると共に、日高見の中でも誉
れ高き人物と言えましょう。残念な事に、
対する田村麻呂が神格化された為に、不当
におとしめられて「鬼」にされていますが
、せめて日高見国の中では、名誉回復を図
りましょう。

 阿弖流為は、生涯大きな戦いを3度行っ
ています。(記紀に依る)その戦いは全て
自分の戦力の10倍以上の敵を向かえてい
ます。戦歴は、1勝1敗1分け・・(私個
人としては、2勝1分けと思いたいのです
が、)

 日本の歴史の中で、自戦力の10倍以上
で、数万単位の敵戦力に3度も対等に戦っ
ている武将は現れていません。
    
 かの織田信長が3万の大軍に2千で奇
襲し、辛うじて勝ちを納めたのが1度だけ
有りますが、彼は2度とその様な戦いを行
っていません。

 源義経が、少数戦力で大軍の平家をたび
たび打ち破っていますが、これは頼朝軍の
バックアップが付いていたから出来たこと
であって、局地戦、騎馬の天才ではありま
すが、大局観が無かった惜しい武将です。

 昭和の日本軍は、自国の何倍の戦力が有
るのか不明な欧米連合軍に宣戦布告し、結
果不幸な事態になりました。


 その点阿弖流為は3千〜5千の戦力で
5万、10万の朝廷軍と対等に戦ってお
り、それを3度も行っている日本史上唯
一の武将(私の知る限る中ですが)なの
です。

 朝廷側から見れば本当に「鬼」に見え
たことでしょう。

朝廷側の報告による戦果

789年(延暦 8年)  5万の朝廷軍 賊首89級 官軍死亡1千余人負傷者2千余人
794年(延暦13年) 10万の朝廷軍 斬首457級捕虜150人
捕馬85匹焼落75処
官軍の被害が不明なるも司令官の更迭
があるので戦果に比して被害大と推測
する。
801年(延暦20年)  4万の朝廷軍 阿弖流為、母礼等500名
投降
田村麻呂の懐柔作戦が効を得る  
 結局、阿弖流為達は強行手段には屈しま
せんでしたが、田村麻呂の用意周到な懐柔
作戦に、外堀たる住民の心変わりが大きく
て仕方なく、投降したものと思われます。

 田村麻呂は、阿弖流為の勇者たる人柄を
知り、朝廷に対して助命の嘆願を行ってお
りますが、「鬼」と恐れていた朝廷はこれ
を許しませんでした。
  
 歴史に もしも(IF・・)が有り、阿弖
流為が田村麻呂をも打ち破っていたらば、・
・・・・

 その後の朝廷には東北征伐の軍力も財力も
無かったわけですから、日高見国は東北地方
北部に確固たる基礎を築きあげ、平泉文化の
様な独自の文化がもっと早く燦然と輝き、花
開いた・・・・・・  かもしれませんね。

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