ホーム>オマージュ・ゴッホ>ゴッホの考えた「三幅対」とは?>ゴッホの記憶にないヒマワリ
昨日(9月28日)損保ジャパン東郷青児美術館に行き、「ゴッホと花」展を観て来ました。その結果、私は『ゴッホが見捨てたひまわり』という気持ちで、『呪われたひまわり』と、損保ジャパン東郷青児美術館の壷のひまわりを名づけることにしました。作品は下記です。
kさん&じゅんさんのご指摘に従い、タイトルを『呪われたひまわり』から、『ゴッホの記憶にないヒマワリ』に変更しました(9月30日加筆)。
この作品が、いつ描かれたかは、従来は1889年の一月とされていました(⇒ゴッホの参考書・ゴッホ「ひまわり」解説図録)。ところが、今回の損保ジャッパン東郷青児美術館の「ゴッホと花」では、この作品は1888年の11〜12月に作成されたものとされました(「ゴッホと花」の図録94ページ)。その理由は、支持体(キャンバス地)や、下塗りの状態からで、2001年から2002年のシカゴ美術館とアムステルダム美術館で開催された「ゴッホとゴーギャンの「南のアトリエ展」で、ゴッホ美術館の学芸員の方々が調べた結果だそうです(「ゴッホと花」の図録95ページ)。
まず、わからなくなるといけないので、残り4作品の壷のひまわりを、ゴッホ書簡をもとに順番に並べてみます。私が読んだ限りでは、フィラデルフィア美術館のものとゴッホ美術館のものとが、どちらが早く描かれたかは、わかりませんでした。そのため、両作品とも通し番号は3で通しています。また、その期間の書簡で、参考になりそうなものは掲載し、他の事件や人物の動きも必要と思われることを記載しました。
さらに、今回損保ジャッパン東郷青児美術館のヒマワリが作成されたと考えられる時期に、を入れました。
番号 | 作品画像 | 作品所蔵美術館・書簡での掲載内容 |
1 | ミューヘンのノイエ・ピナコテーク美術館 「(前略)ぼくは三つのカンヴァスにかかっている。(中略)三番目のものは黄色の花瓶に12本の花と蕾のあるもの(30号)。この最後のものは、だから、明色の上に明色が重なり、一番良いものになるのではないかと思う。(後略)」 ゴッホ書簡526・1888年8月21日頃 |
|
2 | ロンドンのナショナル・ギャラリー 「いま、もう四つめのヒマワリにとりかかっている。この四番目のものは黄色い背景に14本の花の束があるもので、以前に描いたマルメロの実とレモンの静物のようだ。(後略)」 ゴッホ書簡527・8月26日頃 |
|
「ぼくのヒマワリの花をもっと描こうとと思っていたが、もう季節が終ってしまった」 ゴッホ書簡543・9月29日頃 |
||
1888年10月23日 ゴーガンがアルルに到着した。 「ぼくの装飾画を全体としてゴーギャンがどう思っているか、ぼくにはまだわからない。わかっているのは、ただ種播く人とかヒマワリとか寝室とか、ゴーガンが本当に好きな習作が何点かあるだけだ」 ゴッホ書簡558・10月28日 (今回この時期に作られたとされた) 12月14日頃 ゴーガン《ヒマワリを描くゴッホ》を完成 この作品を観たゴッホは、「これは確かにぼくだ。でも、気違いになったぼくだ」と言ったとされている。 |
||
12月23日 夕方「耳きり事件」が起こる 12月24日 アルルのオテル・デュー病院に、ゴッホ収容される 12月26日 ゴーガン、電報で呼んだテオと一緒にパリに戻る 1889年1月6日 ゴッホ、黄色い家にもどる。 「交換という意味だろうと思うが、それとも置き土産にか、ゴーガンがここに残した数点の習作の代わりに、ヒマワリの絵を一枚くれといっているのは、とても奇妙なことだと思う。ぼくは、ゴーガンに、彼の習作を送り返すつもりでいる。(中略)例のヒマワリも絶対に離さない。(後略)」 ゴッホ書簡571・1月17日 |
||
「さて相談だが、きみの細君のことを思えば、時々はグーピル商会にぼくの絵をおいた方がいいのかもしれない。(中略)しかし、きみがそうしたいなら、ヒマワリの絵を2点、あそこに飾ってくれてよい。ゴーガンにヒマワリの絵を1点やれば喜ぶだろうから、何とかそうしてやりたいと思う。それで、もし彼が2点のうち1点を望むなら、そのときは、彼が選んだ方をもう一度描き直そう。(後略)」 ゴッホ書簡573・1月20日頃 「(前略)とりわけ、昨年の夏のものとしては、2点の花の絵、黄色い焼き物の壷に入れたヒマワリだけを描いたものがある。3本分のクローム・イエローとイエロー・オークル、エメラルド・グリーンで描き、他の色は使っていない」 ゴッホ書簡751a 1月23日頃 友人コーニングに宛てた手紙より |
||
3 | フィラデルフィア美術館 「きみ(テオ)が来た時、ゴーガンの部屋で2点の30号のヒマワリの絵に眼をとめたことと思う。ぼくはいま、コピーに、つまり、それらと全く同じレプリカに、最後のタッチを入れたところだ」 ゴッホ書簡574・1月28日 |
|
3 | ゴッホ美術館 『(前略)ルーランがやって来た時、ぼくは、ちょうどヒマワリの絵のコピーを描き終えたところだった。そこで、この4点の花束の絵の間に<ラ・ベルスーズ>を置いて、彼(ルーラン)にみせた」 ゴッホ書簡575・1月30日 |
以前の見解のように、この4作品のあとに、損保ジャッパン東郷青児美術館のヒマワリが作成されたのでしたら、ゴッホが、その作品をどのように思っていたかは、わからないし不明でも良いのです。
ところが、今回の見解のように、1888年の11月〜12月に作られたものでしたら、これだけの書簡の中で全く触れていないということは、ゴッホは無視している、見捨てていると考えられなくはないでしょうか?
損保ジャッパン東郷青児美術館のヒマワリも大作であることは、間違いありません。あれだけのものを描き、何故無視するのか、不思議でたまりません。1月30日の時点では、損保ジャッパン東郷青児美術館のヒマワリは、ゴッホのいう「三幅対」の作品の4点の中にノミネートされてないことは確かです。
それとも、損保ジャッパン東郷青児美術館のヒマワリは、他の4作品を押しのけて、ゴッホの言うところの4点に入れるのでしょうか?それに入ることは、難しいです。それには、理由があります。そのことは、次のページで述べましょう!