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  5. ベートーヴェンの曲をどう演奏しようか

「これこそ正しいベートーヴェンの聴き方」
ベートーヴェンの曲をどう演奏すべきなのか


悲しいかな、最近は生演奏を聴く機会が無いので、文中の演奏については録音物に限定させていただきます。

どんな演奏がいいのだろう

 エジソンが(円筒型だったとはいえ)レコードを発明してからというもの、皆さんご承知のとおり多量の録音が発売され続けているので、今は何をどう選んだらいいものか判断に困る状況だ。聴いてナンボの音楽なので試聴ができればいいのだが、たとえ試聴ができたとしてもそれが店頭では落ち着いて聴いていられないし、それがネットであっても、圧縮音源だったらなんだかなーと思う。要は普段と同じように聴けないと、比べたことにならないのだ。
 しかも、有名な曲の演奏の録音は、おそらく毎年4〜5種類のペースで増えているんじゃないかと思う。正直、そんなに買っていられるはずがない。なぜなら、過去の名演奏、私の頭の中ではせいぜい1980年以前までなのだが、それらを私はほとんど聴いていないんじゃないかと思っているくらいなのだから。

 そんな中で、どんな演奏がいいのだろうかと思うが、まずは、なるべく正しく曲本来の姿を表現してくれる演奏がありがたいと思うのだ。
 そこで、ここでは正しいベートーヴェンの作品の演奏について、主観的にならないように考えたいと思う。おっと、「考えたい」ぢゃぁ、主観的になっちゃうじゃないか。

 正しいベートーヴェンの作品の演奏はどうかといえば一番簡単なのはベートーヴェン本人に尋ねることであるが、そんなもんできるはずもないので、ここはベートーヴェンの演奏を聴いたり指導を受けた人から知るのが一番だ。そうなると、ツェルニーやリース、ルドルフ大公になる。もち、シンドラーは、アテにならない。

ツェルニーの著作

 幸い、ツェルニーが著作を遺しているので、さっさと引用する。長くなるがご容赦ください。

カール・ツェルニー「ベートーヴェン 全ピアノ作品の正しい奏法」(ツェルニー=著、スコダ=編/注、古荘隆保=訳、2008年12月現在発売中)

810090-8_150.jpg (11099 バイト)

 輝かしい技術上の困難点を克服し、さらに作品の精神的把握がなされるべきことは演奏する際にまことに当然なことなのですが、もっと大切なことは全作品を識り、調べ、そして勉強することです。そうとうな技術の持主が、正しい種々の助言を得た上で、ある曲をかなりな程度にまでこなすことはもちろん可能なことですが、全体を見廻した上でこそ、初めて意味深いものがそこに現れると思います。「樹を見て森を見ない」ことではいけないのです。
 ベートーヴェンの全作品に潜んでいるかれの考え・ユーモア(*1)・天才的な自由さ・美に対する深い認識と感覚を知ってこそ、初めて一つ一つの曲の真の理解があるのです。今かりに、某ピアニストがある曲の美しさを自分自身では十分過ぎるほど感じとっていたものと想定しましょう。しかしそれだけでは不十分なのです。この演奏者のつぎに避けられない責任は、かれの感覚を「指を通して」聞く者に伝える点にあるのです。ベートーヴェンの音楽の賞賛者・愛好家が「ベートーヴェンの音楽とはこんなものではない。あの作品には今ひいて聞かされたものとは違う何かがあるはずだ」と驚きもし、また落胆もさせられる原因はそこにあります。ふつうこの場合「あの演奏者は間違った趣味の持主である」とか、あるいは「何か調子でも悪かったんじゃないのか」でかたづけられるのが落ちですが、本当のところはつぎの点が忘れられているのです。「人に向かって話すときに、表現ははっきりと、正しく、言わんとすることにふさわしく、そして徹底的になされなければならない。」

 (*1)当時の「ユーモア」には、不機嫌、不遜、大胆、厚顔といったようなニュアンスがあるそうです。

 「全体を見廻した上でこそ」。この文章の後、ピアノソナタはもちろん、バイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタ、三重奏曲、変奏曲、協奏曲といったリストが続いていて、これら全体を見廻す必要があると書いてある。では、このほんの一部をかじっただけでベートーヴェンの曲を演奏したことになるのか…。少なくともツェルニーは、かなりな程度にまでこなすことは出来ても決定的な何かが足りないと述べているのだ。
 これをこのまま鵜呑みにすると、ほとんどのピアニストは不合格になる。そう判断する前にとりあえず書いておきたいのは、ツェルニーの没年が1857年なので、最低限、それ以前のピアノ全作品群を相手にしているわけだ。現代なら、おそらくその当時の2倍以上のピアノ作品があるわけで、ひとりのピアニストが他の作曲家も相手にしつつベートーヴェンのピアノ全作品を俯瞰しようとするなら2倍も大変ということになる。いきおい、レパートリーを限定し、ベートーヴェンを集中的に演奏するピアニストでなければできない相談だ。そんなピアニストは、チャレンジャーではないかもしれないが、堅実なのである。

 こういったものを読むまでなく、もともとベートーヴェンをあまり演奏しないピアニストがベートーヴェンを演奏して「ハイ、聴いてください」と言われても、聴く前にお金を出すわけだから、なんだかなー、と思う。だから、私はとにかく実績のあるピアニストの録音を買うことになる。すると新進の演奏家の録音は買わなくなる。したがってレコード会社の売上げに貢献しない。だから不況だと騒がれてもなーと思う。
 録音は電気製品と違って時間が経過すれば演奏内容が劣化するわけではない。だから、購入対象の母数は増えるばかりだ。そうそう、普通に製造できたCDは、正しく保管をすれば20年なんて十分に持つし、LPレコードでも、丁寧に扱われたものは30年前の発売でも問題ない。つまり購入対象には、中古品もかなり含まれるのだ。そんな中で誰もが良いなあと思う演奏のほうに手が伸びるのは当然だ。

 それでは、ベートーヴェンのピアノの全作品を識ると、どんな演奏になるのだろうか。再び引用しよう。

 ベートーヴェンの音楽の性格・特長を文字で書き表すとつぎのようになります。厳粛・偉大・力強さ・高貴・高度の感受性に加わるユーモアと勇気・部分的なバロック・才気煥発・ときどき陰鬱になるが甘い優美さや涙もろい感傷性が絶対に出てこない。かれの音楽には何か特別な意味を持って首尾一貫した情緒や意図が表現され、それはどんな些細な箇所でも明確に感じとられるものです。いたるところに音楽的な意味を持つメロディーが流れ、走句や動き回る音型の全てはたんなる手段であって、決して目的ではなく、特に初期の作品で目立ついわゆるブリラント奏法(*2)を要する場所ではよくよく注意しなければなりません。もしも誰かがそういう所でたんに指の速さを誇示するならば、精神的(*3)・美学的な側面を欠き、そしてとどのつまり、かれはその作品を理解できなかったことを暴露するのみです。

 (*2)ブリラントは、輝かしいという意味のフランス語でしょう。
 (*3)精神的とは、分別ある人間として、知識と経験をもとにし、十分に考え練られた、という意味だと思います。

 さあ、探してみよう。どの演奏家が、ベートーヴェンの意図していたものに近いだろう。ツェルニーは、どれを良しとするだろう。ただ、完全に彼らのめがねにかなう演奏は、少ないのではないかと思う。

指揮者も例外ではない

 ここまでは、ピアノ作品について書いてきたわけだが、なにもピアノに限った話ではない。交響曲その他の管弦楽でも同じなのだ。
 ツェルニーは、以下のようなことも書いている。今のピアニストはまずやらないことだろうが、指揮者はかなりやっているはずのことだ。

 1曲づつの作品を調べる前に原則を申し上げる必要があります。「ベートーヴェンを含めて古典作品に接する際、演奏者は原曲に何がしかを増やしたり、あるいは省略したりなどいっさいの変化を絶対に加えてはならない。」また当時の5オクターブのピアノで書かれた曲の音域を、現在の6オクターブ(*4)用で拡大してひくことや、あるいは作曲者自身が記した以外の装飾━かりにこれがどんなに良い趣味で加えられても━をするなどの必要はいっさいありません。原作者がどういうふうに考え、そしてどう書き表したかを生の姿で探求すべきです。

 (*4)現代のピアノは、もちろん8オクターブです。

 改変というのは、どの程度のことを言うのだろうか。ツェルニーの言をそのまま解釈すれば、ある部分に鳴るはずの無い楽器の音があるというのは、ベートーヴェン=ツェルニーにとって、忌むべき立派な改変なのだ。
 往年の名指揮者には頭の痛い話というか、たぶん読んでいない…だろうな。かなりの数の指揮者が、ベートーヴェンからダメ出しをくらうに違いない。たとえば、指揮者ハンス・フォン・ビューローは、楽譜をワーグナーばりに改変した。そして、それに反対したにもかかわらず、フェリックス・ワインガルトナーも程度の差こそあれ楽譜を改変することには賛成で、あちこちを改変して演奏した。フルトヴェングラーもトスカニーニも、自分なりに改変して演奏した。彼らの演奏を聴けば、無いはずのティンパニの音が、あちこちで聞こえる。ホルンやトランペットの音を、当時の技術では仕方なく出せなかったからだという理由をつけて、書き直したりする。こっちのほうが良く鳴るからと、楽器の音を書き足してしまう。
 20世紀後半になって、なんとか過去の呪縛から逃れ、楽譜の改変を抑える方向の演奏が主流になってきた。しかし、最初から指揮者全員がツェルニーの著作を読んでさえいれば、妙な改変はほとんど無かったはずだろう。

 さて、以上までではテンポに関する記載は出さなかったが、ツェルニーは、こうも書いている。

 指示された特別な場を除いての原則的条件は、テンポを揺らさないことであり… (ソナタ第23番「熱情」の指示)


 ツェルニーの著作では、曲(楽章)全体のテンポの指示について、かなりうるさく書かれている。しかし、微妙なテンポの揺れを戒める発言については、上記以外はほとんどない。楽譜上で指示の無いテンポの揺れは、当然避けなければいけないだろう。そもそも書かれていることを守って普通に弾けば、あまりテンポの揺れは発生しないものだ。だから、テンポの揺れについはあまり書かれていないのか。それを念頭におけば、古き良き時代の巨匠たちのテンポのかなりの揺れは、ロマン派の時代の名残りを表すものではあっても、ベートーヴェンを表すものであるかどうかは、疑問に持っておくべきものだと思う。

 ピアノ演奏については、ベートーヴェン=ツェルニー=リストという系列が存在したから、楽譜のテンポや音の改変はさして問題にはならなかったはずだ。たしかに演奏のやり方はロマンチックにはなっただろうが、ツェルニー=リストによる何らかの歯止めはあって、常軌を逸したということは無かったと思いたい。
 しかし、こと指揮者については、ベートーヴェン自身が耳のせいで卓越した指揮者になれるはずも無く、当然弟子もいない。そうこうしているうちに管弦楽が巨大になって、音楽そのものも古典派からロマン派に変わってしまった。演奏の変化も、歯止めが効かなくなってしまった。作曲の主流が演奏に反映してしまう。作曲家であり指揮者であったワーグナーやマーラーの影響力は、強大だったろう。きっと楽譜そのままに丁寧に演奏した指揮者もいたに違いないと思うが、きっと全く目立たなかったに違いない。

 フルトヴェングラーの演奏がどれほど面白く感動できるとしても、やはりそれは本来あるべき姿ではないと思うべきだろう。改変された演奏なのだから、交響曲第5番ハ短調(フルトヴェングラー改変版)とでも書いて発売するべきだろう。売るほうは、たとえば「楽譜の改変は全くありません。エネルギッシュにまとめました」と演奏家に直接書いてもらったほうが、選ぶこちらにはありがたいといえよう。こちらだって時間と金を使うのだ。命懸けの遊びなのだ。ともかく、改変であるということが明記された録音は、「マーラー版」「近衛版」と、数えるほどしか無い。そして、楽譜を改変して演奏した交響曲の演奏は多い。知らなかったとは言ってほしくない。いみじくもベートーヴェンの交響曲を愛する者は、それくらいのことは知っておかなければだめだ。(*5)
 途中から指揮者批判のようになってしまったが、初心者を脱してもなお、そういったことを知らずに聴いている人が多いような気がしているのである。 →
【続く】

 (*5)某評論家の書き方を真似て、大時代的な演奏を揶揄しています。この説明は蛇足でしたが。

(2008.12.15)



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