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「これこそ正しいベートーヴェンの聴き方」
ベートーヴェンの曲をどう演奏すべきなのか 2


珍しく質問がありましたので、それについて考えてみたいと思う。

テンポの変動について(ベートーヴェンファン) 2008/12/30

大権現様の演奏論を読んで、書き込みさせていただきます。

どこかのCDの解説書で、ベートーヴェンが、曲頭のテンポを終始一貫変えてはならないということはないと言っていたと記述しているものを読んだ記憶があります。また、第7交響曲の初演の練習の際、「ベートーヴェンはピアノを強調するにつれて、からだを一層かがめ、クレッシェンドに来ると、少しずつ身を起こし、フォルテに入ると思いっきり背伸びをした。時にはフォルテの最中に、もっと強めようとして、思わず叫ぶことがあった。...(シュポーアの自伝)」といわれています。

残念なのは、テンポを揺らしたかどうかの記述は残っていません。はたして、大権現様は、第7交響曲のフィナーレのコーダのような部分でもインテンポで通したのでしょうか。大権現様のテンポの揺れに関する見解が残っている文献はありますか。そのあたりに非常に興味があります。

もちろん、その当時の演奏様式では、テンポはロマン派の時代のように変幻自在とはいかなかったとは想像できます。晩年のフルトヴェングラーは、古典派の作品の演奏に関して、以前自分が好んだテンポの変動はやるとしても控えめでなければならない、大切なのは様式であると記述していますし。

 たしかに、持っている書籍を全て読みきったわけではないが、テンポの揺れに関する記述が驚くほど少ない。というか、見かけない。強弱に関する説明は、おっしゃるようなことも含めて、ずいぶんある。

 一方、私が最近書いた文章で「ユーモア」の意味が今と違う、というようなことを書いたが、このように言葉の本当の意味も難しい問題だ。つまり、[当時の言葉の意味]≠[現代の言葉の意味]≠[日本語に翻訳したときの意味]という可能性がある。だから、どこかに読み取りミスがあって、じつはテンポの揺れもどこかに含んでいるかもしれない。
 たとえば、ベートーヴェンの演奏を「情熱的」と表現した批評があったが、さて「情熱的」って何だろう? 強弱? アクセントのめりはり? <や>の音量の変化? それとも、テンポの揺れ? きっと、どこかにテンポの揺れも含めているに違いないと思う。とすると、ベートーヴェンもテンポを揺らせていた?

基本のひとつは、拍子を正しく

 作曲者の目前で誰かがその曲を演奏した場合、作曲者はどういう考えをもとに聴いているのだろうか。おそらく「俺の音楽を知っているのか、こいつは」という思いが最初にあるのではないかと思う。
 どんな習い事でも同じなのだろうと思うが、まず基本は、師匠に教えられたことに忠実にこなすことであろう。それが完璧に出来て、初めて師匠は弟子を次の段階へ行かせることができる。もし、師匠に教えられたことが忠実にできていないと悟られたら、どんなに新しいこと、どんなにすばらしい解釈が付け足されていても、師匠は厳然と「否」と言うだろう。「オマエには、まだ早いのぢゃ!」
 ベートーヴェンの弟子になっているわけではないピアノ弾きが、ベートーヴェンに気に入られる演奏をするには……当然、楽譜に記されたことを完全に弾きこなし、余計なことを足さないのが最初の取るべき道であろう。
 ベートーヴェンがツェルニーに出した手紙の中に

「初めに正しい指使い、それから拍子を正しく、譜面を大略間違いなしにひけるようになってから表現法を指導してください。」

  ツェルニー著、スコダ編「全ピアノ作品の正しい奏法」

と書いているとおり、表現を学ぶのは、基本が出来てからの段階なのだ。一方、同じ本にあるスコダの注釈によれば、

「シンドラーはツェルニーにくらべて、アゴギークに相当自由な幅を与えている。(中略)シンドラーは晩年のベートーヴェンと接触があり、それに反してツェルニーはベートーヴェンの直接指導を、シンドラーより20年も早く受けていた」

  (同上)

とある。
 シンドラーが音楽的に十分な才能を持っていないことを割り引いて考えなければいけないだろうが、ピアノソナタや弦楽四重奏曲など、晩年になるに従い、速度の指示が細かくなっていくことは(音楽の性質上もあって)事実なので、それを考えれば、スコダの注釈になるのも納得できる。
 そのかわり、どの作品でも、どこででも速度を柔軟に変更していいわけでもない。必ずどこかに、あいまいながらも境界があるはずなのだ。それが曲の種類によるものか時期によるものか、これは、よく考えねばならないだろう。

つまり、曲頭のテンポを終始一貫変えてはならない

 さて、ツェルニーの著作を元にする以上、ここまでは、主にピアノの演奏についてのものだ。では管弦楽では……当然、大勢いる楽団員の演奏をまとめあげることが必要なので、そこに楽譜に書かれていない速度の揺れを持ち込むなどということは、当時としては狂気の沙汰であろう。ましてや、演奏法も指揮の技術もレベルが低かったらしい当時のこと、音の高さを揃えたり、音符の長さに忠実に音を出したり、そして速度を一定にして、大勢が揃って音を出すことが重要な課題であったことは容易に想像できる。テンポも適当であったと思われる。それは、晩年、メルツェルがメトロノームを発明した頃、それまでに書いた交響曲(第8番まで)の全楽章に、メトロノームによる速度表記を書いたという。これは、ベートーヴェンが遅すぎたり速すぎたりする演奏を嫌ったことによるが、こうして決めた以上、その楽章は指定されたテンポで一定に演奏するべきだ、ということは絶対に正しいと思ってよい。速度の数字が多少ズレているという考察があっても、ズレていたならそれなりの数値で一定に演奏すべきだと思ったことは間違いない。「曲頭のテンポを終始一貫変えてはならない」というのは、正しい。
 ここでテンポの揺れについて目立つ例をあげておきたい思う。下記は交響曲第5番の第4楽章の一部だ。
sym5-4-1.gif (112166 バイト)
 これを、ハンス・フォン・ビューローは、このように指揮したという。
sym5-4-2.gif (63653 バイト)
 メンゲルベルクも似たり寄ったりの演奏だったと記憶している(LPレコードを持っていたが売り払った)。この演奏をここでは胸糞悪いとケナしておくが、この部分には重要なパートがある。それは、第2バイオリンとビオラだ。この部分ではずっと16分音符による刻みを演奏しているが、旋律を受け持つホルンなどの主要パートがリタルダンドとかアテンポをしていたら、この刻みの人たちは、どう演奏すればいいのだろう。逆に、この刻みの人たちこそ「拍子を正しく」している人たちなのだ。どこをどう考えたって、この刻みで出来上がる音符の長さがあちこちで違っているなんて考えられない! そう、テンポを一定にするのは当然のことなのだ。だから、交響曲第5番の第4楽章直前で、フェルマータじみたタメを作ってしまう演奏は、どんなに面白くても間違っているのである。なぜなら、そこに正しく拍子を示す弦楽器の刻みがあるからなのだ。
 テンポの揺れについてもうひとつ。
leo-3-1.gif (87357 バイト)
これはレオノーレ序曲第3番の主部に入るところ。

フルトヴェングラーはフェルマータのついたHの音からピアニシモでハ長調に移行するところは、導入部からの抑制された感じが、主題にもひきつがれねばならないのに、トスカニーニはまるでハイドンのアレグロのように唐突に、早いテンポで喜ばしげに開始する、というんです」

  岩波新書「フルトヴェングラー」

 ここでも、ビオラが刻みを入れていることに注意したい。Allegroという速度表記がただひとつでビオラの刻みが入れば…そう、テンポを揺らせて良いはずが無い。フルトヴェングラー万歳!な本なので上のような表現になっているが、二縦線でAllegroに切り替わるこの場面で「導入部からの抑制された感じが、主題にもひきつがれねばならない」なんて、どうしてそんな断定ができる!?と私は思う。
 Allegroという表記だけでは確かに速度の幅に余裕があって、遅めのAllegro、速めのAllegroとあるだろうが、加速するためにaccel.などという記載が書かれているわけではない。ここはやはり一定の速度で推し進めるべきだろう。
 ちなみにフルトヴェングラーは、ブラームスの交響曲第1番第4楽章の第1主題、シューベルトの「ザ・グレート」第1楽章の序奏からソナタ形式主部に移る場面、ベートーヴェンではエグモント序曲のコーダや交響曲第9番第4楽章の管弦楽による歓喜の主題の場面で、全く同じように加速をしている。ここでは、「またやるんか」とでも書いておきたい。「以前自分が好んだテンポの変動はやるとしても控えめでなければならない」ってことは、早めに悟ってほしかったもんだ。まあ、時代がそうさせているから仕方が無いのだろうが。それより一部の批評家がフルトヴェングラーを盲目的にヨイショするのはやめてほしいものであるといえよう。

楽譜には無いテンポの揺らし方は、基本を完璧にマスターしてから許されるだろう

 テンポを正しく守って演奏できる第1段階「譜面を大略間違いなしにひける」を優の成績で終えたら第2段階だ。ここでテンポをどう揺らしていいかを学ぶことができるだろう。しかしながらテンポをどのように揺らせるかということは、ベートーヴェン自身の指導でしか学べない。しかしベートーヴェンは名指揮者ではないし、当時の短期間の練習では、テンポを守って演奏する段階に終始するしか無かっただろう。だから、管弦楽におけるテンポの揺れについての記録は無いも同然(読んだ限りでは)。弦楽四重奏については何か伝えられてもいいのではと思うが、シュパンツィッヒは何か記録を残しているだろうか。
 想像をたくましくすると、ピアニストとしてツェルニーは、第2段階としての何らかの指導を、当然受けていただろう。何か記録を残しているだろうか。そこには当然テンポの流動に関する奥義もあったはずだ。しかし、奥義は奥義、基本を極めた者でなければ使えない。だからこそ、逆に微妙すぎて楽譜には書けないはずだ。本にも書かれない。
 いやその前に「皇帝」でカデンツァを入れるなと指示するくらいのベートーヴェンだから、本当にアゴギークを必要と思ったのなら、ピアニストに勝手きままにやられないように自分自身でそれを楽譜に書き込んだに違いない。だからピアノソナタでは、たとえば最後のハ短調ソナタでritenente や ritard.  a tempo などがあちこちに書かれている。そもそも、Op.90(1814)のソナタから、そのような記述があるので、交響曲第7番(1814)や第8番(1814)でも、本当に書きたくなったらきっと何か書いているはずなのだ。
 そういえば、第8番にリタルダンドがあったなあ。
 1814年に限ったとしても、テンポの揺れについては、時期的に書きたければ書けたはずで、実際ピアノソナタでは書いたのだから、たとえば交響曲第7番のある楽章で、冒頭以外に何も書いていないのなら、曲頭のテンポは変えるべきではない。なおのこと、交響曲第5番や第6番、あるいはそれ以前の音楽を書いた頃では、全ての曲種の中で最も先進的であったピアノソナタにおいてすらテンポの揺れを楽譜に示していないのだから、テンポ一定を守るのは当然だと思う。それが、その頃の様式なのだ。交響曲第5番の冒頭5小節のテンポのみがむやみに遅いのは、大変な間違いであると思う。
 晩年に属する交響曲第9番でも、わずかな場所ではあるが速度について rit.(リタルダンド)が現れる。だから作曲者が指示するそのような場面に限って速度を揺らすことが当然だろうと考えるべきだ。誰でもやっていいよ、というテンポの揺れは、初めからそこに書かれているのである。

 結局、微妙なテンポ揺らしの奥義を極めたのは、せいぜい作曲者自身のみ。完璧に訓練された現代のオーケストラならベートーヴェンはその微妙なテンポの奥義を示したかもしれないが、それはかなわない夢だ。交響曲第7番の最終楽章のコーダでも、ベートーヴェンはきっと何かをやらかしたかったとは思うが、当時はそれが可能なほど練習に時間を割いたとは思えない。記録に残らないのも当然なのかもしれない。

 誰か、どこかにテンポに関する記録を見つけていませんか。 →【続く】
(2009.1.2)



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