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  5. ベートーヴェンの曲をどう演奏しようか4

「これこそ正しいベートーヴェンの聴き方」
ベートーヴェンの曲をどう演奏すべきなのか 4


返答があったので、それについて考えてみたいと思う。

re: テンポの変動について   (ベートーヴェンファン)  2009/1/11

大権現様、ご返答を頂きありがとうございました。
  
  結局、ベートーヴェンがどのような演奏を理想としたかは、わからないということですね。
  ベートーヴェン自身のピアノの即興演奏や作品101、作品109、110、111の演奏は聞いてみたかったです。
  
  ところで、せっかくご解答頂いたページの説明に逆らうようで恐縮なのですが、私の持っているCDについている金子建志氏の解説には、
  
  「ベートーヴェンのメトロノーム指定は、作曲時から大分時が経って、メルツェルのクロノメータが開発された1817年以降につけられたもの。また、ベートーヴェン自身も否定しているように、曲頭のテンポを終始一貫変えてはならない-ということもない。従って「このタイムで演奏すべき」という意味では、もちろんない」
  
  と書かれているのですが...
 
  つまり、メトロノーム指定と小説数を掛けたタイムで演奏するべきであるということでは全くないということです。これらは交響曲1番、2番に関する解説です。
  
  金子氏の記述が正しければ、メトロノーム指定と関係して、ベートーヴェンが自身の曲を演奏する際に、インテンポである必要は必ずしもないことを言及した記録が残っている事になります。
  それとも、これもシンドラーの創作かな?

 
 引用してばかりでは自分の考えがあいまいになりそうであるが、とりあえず…

 ベートーヴェンは、音楽に基本となる厳密なテンポがあり、場合によってある程度の柔軟性がとり入れられるような演奏を好んだと考えられ、これを裏付ける証拠が彼の音楽にも、当時の資料にも多く見られる。こうしてみてくると、純粋に作曲家の意図に忠実な演奏を再現しようとする最近の傾向も疑問に思えてくる。
 ベートーヴェンはこのほかにもテンポに関する指示を書いているが、これによって一定の柔軟性を示したり、微妙なテンポの変化を規定することで、従来よりも正確な解釈を要求できるようになった。《ピアノ・ソナタ》作品110のフィナーレは(中略)短時間にテンポ変化が頻繁に要求される。

  バリー・クーパー原著監修「ベートーヴェン大事典」

 上の書籍は1991年の著作だ。この文で考えたり思ったりしている人は、アン=ルイーズ・コールディコット、大事典の執筆者のひとり。

 ベートーヴェンはテンポについて柔軟性を取り入れただろうなということは想像できるが、「ベートーヴェンが気に入るようにテンポに柔軟性を持たせる」のは困難で、勝手に柔軟にするのは(演奏は面白いだろうが)危険だと思う。いや、その危険といっても、ベートーヴェン自身に嫌われるかどうかということだけなのだ。死人に口無し。そんな危険なことをするくらいなら、インテンポで(じつはすぐにはわからない程度にテンポを揺らせるけども)演奏するほうが危なくないし、それでも他のニュアンスで十分にベートーヴェンの意図は表現可能だと思う。また、後期のピアノソナタに記述されたようなテンポの揺れを、そのまま交響曲のような他の曲種で真似たり、あるいは、同じ曲種であっても何年も前に作曲したものにまであてはめるのは、権限の逸脱としか思えない。フルトヴェングラーに対してトスカニーニは、たしかに楽譜の改変をある程度実施したが、テンポはインテンポだった。というか、じつは微妙に変化させて演奏したという。人間ですから。
 ベートーヴェンの指導が無い限り、(ここで書いたように)第二段階の奥義は伝授されないので、インテンポで演奏するのは正しいと私は思う。第一段階を極めたところで止まるしかないから、そうであるべきだと思う。ところで、ベートーヴェンがシンドラーに、こう語ったという…

 メトロノームなんてもう要らない! 正しく音楽を感じ取ることができる人は、そんなものは必要ないんだ。正しく音楽を感じ取れない人には、何を与えても無駄だ。

  シンドラーの記述。バリー・クーパー原著監修「ベートーヴェン大事典」

 しょせんシンドラー。これも捏造という疑いがあるそうで、この言葉は放っておくしかない。
 困るのは、これまでベートーヴェンの記録を残す人たちがロマン派に生きていたことで、たぶんロマン派の流れに逆らえなかっただろうというか、ベートーヴェンがロマン派を導いたという先駆者のイメージを逆に大切にしたいから、シンドラーは上のような記録を残したのだろうか。

 もし、ライブ演奏で柔軟性に富む演奏をしている演奏家が、いざレコーディングではおとなしい(テンポなどの柔軟性の少ない)演奏をしているのを見つけたなら、それは、もしかすると「私は第一段階はここまで極めました!」という思いを込めたのではないかな、と思う。そして、伝授されていない第二段階を自分なりに想像してライブで表現しようとすることは、演奏家のチャレンジとしては、ありだと思う。もちろん、ベートーヴェンにどう評価されるかは、わかったものではない。

かの女(マリー・ビゴ)はベートーヴェンの作品を上手にひいた。あの時ベートーヴェンは、かれの新作のソナタを見事にひいたのかの女に対し、
「あなたの演奏は、わたしがこの曲に表現しようと思った通りではないが、しかしそれでもかまいません。わたし自身が不完全だとすれば、その方がかえってよいのかも知れませんから」と評したという。

   属 啓成「ベートーヴェン 生涯編」

 何をどう演奏したかさっぱりわからないが、このような人もいたということだ。ちなみに上は、1804〜1809年の間でのこと。

 私自身が思っているのは、第一段階を極められん奴に、第二段階なんか、やってくれるな! ということ。正確なテンポ(*)で立派に演奏できないなら、その先に進んでも所詮ダメなのだ。悲しいかな、第一段階を飛び越して第二段階に食いつきたい人が多い。自分を取り巻く状況に流されるのだ。これはどんな分野でも同じだと思う。書いていて、北斗神拳みたいなものだなあと思った。ただ、北斗神拳では、その拳を受けたら死んでしまうが、音楽の場合は批評できてしまうのだ。第一段階を極められん奴の第二段階の演奏は、聴くに耐えない。きっと、そうだろう。そういえば、バレンボイムのワルトシュタインは聴くに耐えなかった。フルトヴェングラーの真似をピアノに持ち込んだからかもしれない。

 第一段階を極めし者が「我が行く道はいずれか」と尋ねたら「いざ、奥義を授けん」と応え、第一段階が何かすら知らぬ者が「我奥義を求めん」と尋ねたら「楽譜に全て書かれておる」と突っぱねるものだと思う。

(*)気付かぬ程度に揺れてもよい。人間ですから。

(2009.1.11)



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