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単発講座「ピアノソナタ第23番 熱情」


やはり前進するエネルギーだろう

 「ワルトシュタイン」が陽なら、「熱情」は陰であろうか。あいや、陰気というわけではない。「ワルトシュタイン」がまさに誰にでもわかるように表立って活動している様なら、「熱情」は動きには見えなくとも内に込めた熱い思いというか、そんな感じに聴こえる。だから「熱情」などというあだ名がついたのか。そのためか、少々疲れている場合には、聴くのをためらう。ベートーヴェンをしっかり聴くには体調を整えておくことが肝心な曲が多いが、この「熱情」も最たるものだろう。聴く者に前進するエネルギーをもたらすこの曲は、聴くためにそれなりの準備が必要だ。まあ、体調だけのことなのだが。

第1楽章
 別にこの曲に限ったわけではないが、「トリル」が主題に関わっていることは注意しておこう。たしかに、「ワルトシュタイン」のロンドでも長いトリルがあった。トリルそのものは珍しいものではないが、この曲あたりから使われ方が単なる装飾を超えている気がする。さすが傑作の森か。後の作曲になるほど、トリルの役割は重要になっていくようだ。
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交響曲第5番の元ネタ」はさておき、やはりここでは、あまりにもピアノ的な痛快さを指摘するしかない。この、左右でバンバン叩く手法をここまで思いっきり書いた例は、今まであっただろうか(調べる気は無いけど)。とにかく、ただならぬ音楽であることは確かだ。この男性的な打撃と対比して、「ワルトシュタイン」の終楽章コーダのオクターブ下降上昇は女性的と例えてもいいかもしれない。とにかく、両者をセットにすればピアノ的な書き方は完全に網羅しているかのような印象を持つ。
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 その後、この左手のうごめく所が面白い。低音で、しかも音が多いので厚みがある。ふつふつと湧き出る思いといったところだ。ベートーヴェン以前の音楽では(無名作曲家でどうかは知る由も無いが)なかなか見られない。

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これら以外でも、あまりにもピアノ的なパッセージの占有面積は多い。

 いつも気になる音型があるので、一箇所あげておこう。再現部にある特徴的な右手の下例だ。一般に流布している楽譜を引用したが、耳には赤丸のように妙なリズムが浮き上がって聴こえることになって、この後もしばらく続く。私自身、かなり以前から変だなあと思っていたのだが、実際にこれは変ではないかという考え方、つまり赤い上下運動の線のような動きをなるべく継続すべきと考える評論家もいるのだ。本棚をひっくり返すのが面倒なんだが、誰だったかな。
 印刷譜例2,3小節めの1〜3拍の動きが本当に続けたかった音型なのだという考え方の場合には、滅多に赤丸のようなリズムは出てこないことになる。この下に自筆草稿(例の印刷譜では2小節めからにあたる)を掲げていくので、お確かめいただきたい。自筆草稿は省略だらけなので、どのように演奏すべきか一寸わからなくなる。斜め二重線の意味は直前の音型の繰り返しなので、そのまま解釈すると上の印刷譜が正しい。ちなみに初版はどうなっているかというと、手書きそのままの二重線だらけ。記号そのままの解釈か、それとも音楽的に考えると…各自考えてみよう。私は、赤丸のリズムがなるべく現れないように演奏してほしいものだなと思う。
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第2楽章

 主題が低音部で始まるが、変奏がひとつ次に移ると少しずつ高音に移って行く。高音域になるほど、さわやか軽やかになっていく。あまりにも高音(高温)に進み過ぎたので、背中に羽根をくっつけていたロウが溶けて、一気に落ちてしまいましたとさ。
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第3楽章

 一応ソナタ形式なのだが、問題は、珍しいことに中間で繰り返しが存在することだろうか。
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 この繰り返しを演奏しなかったとしても、ソナタ形式には変わりは無いし、全く演奏しない音型が取り残されるわけでもない。なんとなく繰り返さなくても良いような気もする。
 しかし、待て。
 交響曲「田園」のスケルツォの例(たった一個しかない繰り返し)を持ち出すとわかるように、繰り返すことによって現われる意図が何かあるはずなのだ。(ふと、無いかもしれないなとも思ったが…)このソナタの場合には、どんな意図が見えてくるのだろうか。
 いくら理屈をこねたところで聴いてなるほどと納得しないと意味が無いので、とりあえず聴いてみよう。
 当時の人はどのような印象を受けたのだろうか。それは彼らの知識と体験がどのようなものであったかによるが、私にはわからない。しかし古典派の音楽に普通に経験を持つ人なら、
 提示部 - 展開部 - 再現部
であったものが、繰り返すことで
 提示部 - [ 展開部 - 再現部 ]  (例によって[ ] は繰り返しを示す)
になったことに気付く。
 この構造について、古典派の音楽、特に1800年以前のものを聴いている人はきっとなるほどと思うのだが。すなわち、ソナタ形式の
 [ 提示部 ] - [ 展開部 - 再現部 ]
という構造だ。
 繰り返し記号があるのは提示部だけじゃないのか?と思うかもしれないが、1800年以前では展開部と再現部をセットにしての繰り返しもあった。それがいつ頃から廃れたのかは知らない。ただ、少なくともベートーヴェンの初期のピアノソナタにも見られる形式なのだ。
 「熱情」としては提示部にも繰り返し記号があれば古い考え方の人は納得するだろうが、そこは先進的な「熱情」。そう、「英雄」交響曲を書いた頃のベートーヴェンなのだ。単なるソナタの先祖帰りであるはずがない。絶対に違う意味があるはずだ。結局、少し考えてみて、
 提示部 - 展開部 - 再現部 - 展開部 - 再現部 - コーダ
という、ロンド形式のようなことを考えたのかな、ということしか考えつかなかった。こうすることで、長さを第1楽章と比べて釣りあうようにして、エネルギーを十分持たせたのだ。交響曲第8番の最終楽章みたいなものである。

(2008.7.19)



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