運命からの脱却 2!
前回は、「運命の動機」というもので他の曲を色眼鏡で見てしまうことへの呪縛を解き放つという、まことおめでたい論説を展開したのであるが、今回はもうちょい範囲を広げて、「運命」そのものからの脱却を目指すという、深遠なる構想を掲げるのであった。
「運命」にだまされるな!
ベートーヴェンの交響曲第5番、いわゆる「運命」交響曲が交響曲中のベスト・ワンだ、などという説明を読んでしまうと、他の交響曲について皆さんはどう思うだろうか。いろいろとよく聴いている人ならともかく、何も知らない人は、(冒頭のアレを念頭にして)「交響曲ってああいうものなんだ」「あんなものを目指す音楽なんだ」「みんな、似たような曲を作るんだ」などと思わないだろうか。あるいは、(冒頭のアレを念頭にして)「ベートーヴェンはあんな曲ばかり作るのか」と思っている人もいるかも。
「なんで、そうなるねん?」
事実はもうご存知の通りなので、思っていることが良い意味であっても悪い意味であっても、期待は見事に裏切られるのである。
ベートーヴェン以前の、ハイドン、モーツァルトに代表される交響曲は、快活、優美といった内容で、素人的には貴族趣味な感じがする音楽だ。「妙なる調べ(たえなるしらべ)」って、バロックとかモーツァルトにぴったりの言葉じゃないか。要は、あんな感じの貴族の服装(イメージ、わかるよね)を着て、紅茶(?)を飲みながら聴くとなんだかサマになるような音楽である。これは交響曲に限らない。室内楽やピアノ(チェンバロ?)曲も、似たり寄ったりである。
そこへベートーヴェンが現れたが、もちろん聴衆の趣味に迎合するのも世渡りの方便として必要なので、そういう音楽を書きつつ、自分の世界も示すことになる。そして、ベートーヴェンの交響曲は「ファイト、イッパーッツ!」を基本とする。ただ元気ということなら、ハイドンモーツァルトも似たようなものであるが、とにかく「ファイト、イッパーッツ!」なのである。第1、2、4、7番なんかが特にそうだ。第8番は、そこに少々ユーモアが入る。しかし世間一般としては、とにかく代表作が「運命」である。それは交響曲第5番ハ短調Op.67という名前の曲ではなく、とにかく「運命」という謎めいた言葉を持つ曲であって、全4楽章ではなく第1楽章なのだ。そのあたりが、「運命の主題」の呪縛から逃げられていないことを端的に示しているし、交響曲としても因縁めいた影響を与えているのだろう。これは、「運命」という言葉を題名としてあからさまに使われないヨーロッパでも同じではないだろうか。ああw、全部、シンドラーが悪いのである。
ちなみに、同様のことがモーツァルトにもあって、第25番と第40番の交響曲が短調、というか、特に第1楽章が短調で有名なので、おそらくそれで「モーツァルトは疾走する悲しみ」などと、ことさらに強調されて批評されるが、モーツァルトの全部が全部を「疾走する悲しみ」でひとくくりにされたくないよなあ、と思ってしまう。
世間の誤解を正す意味で書くと、いわゆる「運命」交響曲の第1楽章のような音楽は、たしかにベートーヴェンでなければ書けない音楽である。しかし、ベートーヴェンの主力となる作風ではない。第4楽章でこの交響曲が完結することを考えても第4楽章のほうが、ベートーヴェンの本来の作風に近い。ベートーヴェンは、基本的に長調で終わることで好しとする人なのである。
当然のこと、交響曲第5番、いわゆる「運命」の、あまりにも有名になり過ぎた第1楽章の雰囲気にいくらかでも似た音楽はといえば、せいぜい第3番「英雄」の第1,2楽章、第9番「合唱付き」の第1楽章といったところで、かき集めても交響曲の全楽章の9分の1くらいにしかならない。そもそも短調の音楽が比率として少ないのだ。それくらい他の曲は別の内容になっているのだ。「勇壮」「快活」「優美」あるいは他のさまざまな表現が可能な、陽性の音楽が集まっているのだ。
クイズ
突然ですが、クイズを1問
この譜面の、次の小節の第1バイオリンの音符(または休符)の並びを知っていますか。
答えを考えるより、まずどれか選んでみよう。
@書き込むことができる。
A音符/休符は書けないが、歌うことができる(音痴許可)。
Bわからない。
答えは、後ほど。
「わかるかな?」
主力分野をちょっと見てみる
交響曲全9曲の基本は、終わり良ければ全て良し。人生、前向きなのだ。強いて言えば、密度の濃い音楽ばかりである。交響曲第1番が、ハイドンの最も密度の濃い音楽と同等のレベルになっているとみていいだろうか。名前では優しいように聞こえる第6番「田園」であっても、避暑か何かで安らぎを得るために行くというよりは元気にハイキングに行くという感じがある。
弦楽四重奏曲では、交響曲のように表立って元気を示す曲は、むしろ少ない。いわゆるラズモフスキーと呼ばれる3曲はたしかに内に秘められたエネルギーはすごいが、それでも弦楽四重奏という渋く純粋な響きの編成に適した、交響曲とは全く違う種類の音楽である。後期の第12番以降になると、交響曲でもピアノでも表現できない世界になってしまっている。一方、Op.18の6曲は、初期のピアノソナタにかなり近い雰囲気を持っているように感じられる。
ピアノ・ソナタでも同様で、たとえば、交響曲「運命」に最も似た感じの作風は「熱情」であるが、これはOp番号の付いたいわゆる全32曲のうちのただ1曲でしかない。名前による連想を使って無理やりそれっぽい「悲愴」を入れても、32分の2でしかない。つまり、32分の30は、別の雰囲気を持った音楽だ。「ハンマークラヴィア」と呼ばれる第29番も、なりは交響曲のようであるがこんな音楽はこれ1曲のみである。大半のピアノ・ソナタは、交響曲とは全く別のルートで進化しているように見える。最後の3曲に至っては、いつの時代の音楽か、と思う人もいるかもしれない。しかし、1820年頃の音楽なのである。
ということで主力の3分野でざっと眺めてみたが、あたかもベートーヴェンの代名詞であるかのような交響曲第5番(の、特に第1楽章)に似た雰囲気を持つ音楽は、じつは大変狭い範囲の数少ないものであって、他は全く違った姿を見せてくれるのだ。
「それも運命なのよ」
よく考えたら、ピアノはピアノなりの、弦楽四重奏はそれなりの音色や機能を持っているのだから、同じような音楽にならないことは当然だろう。つまり、各々の食材に適した料理に仕上がっているようなもので、あたりまえのことなのである。
ということで、ベートーヴェンの音楽が全部「運命」みたいなものだよと思ってしまったキミ、幸いなことに、それは間違いだ。交響曲第5番は、むしろ特異な内容の作品なのである。
でも、その特異な曲が代表作になっている。そして、その代表作で他の曲も似たようなものだとか思うのも無理からぬ話。だいたいにおいて、交響曲第5番のような音楽を目指した作曲家が何人もいるからだ。
交響曲第5番の、短調で始まり長調で解決するその流れにあやかって、リストは交響詩「前奏曲」(1854年)を書いたし、ブラームスは交響曲第1番(1876年)を書いた。チャイコフスキーの交響曲第5番(1888年)も、「運命の主題」などと呼ぶテーマがあるが、チャイコフスキーの言う「運命」は、ベートーヴェンを意識していたのだろうか。一方、第3楽章から第4楽章へのつなぎの部分に着目して、シベリウスは交響曲第2番(1902年)に似たような構造を与えた。
プロ中のプロがそうなのだから、ド素人の旧ソ連の要職連中がショスタコービッチに同じものを期待してしまうのも当然の成り行き。結局ショスタコービッチも同じ5番の交響曲(1937年)で、似たような曲を書くはめになった。そうなったショスタコービッチ、「これも運命なのさ」と言ったとか言わなかったとか。
一方、12歳のメンデルスゾーンが文豪ゲーテに交響曲第5番の冒頭をピアノで聴かせて、ひとしきり「この曲は驚かせるだけで、一向に感動させない!」と文句を言わせたとかいう逸話(1830年)を読むと、じゃ「田園」交響曲をなぜ聴かせなかったのかな、と思ってしまう。メンデルスゾーンが坊やだったからだろうか。
1817年、詩人のクフナーがベートーヴェンに対し、尋ねた。
「あなたの交響曲で一番好きな曲はどれですか?」
「エロイカだ」
「ハ短調(「運命」のこと)だとばかり思っていましたよ」
「いやいや、エロイカだ」
この逸話は第9の作曲以前のことになるが、これも当時から交響曲第5番がずば抜けて有名だったということを示している。おっと、シンドラーの「運命が扉をたたく」逸話が発表されたよりも前のことになるなぁ。
「クフナーよ、おまえエロイカを聴いてないだろ? な」
他にも、この曲にはいろいろと尾ひれがついていて、E.T.A.ホフマンが、特別にこの曲を取り上げて賛辞の解説をしたり(1810年)、シェンカーが、有機的な側面から画期的(*1)な解説(1921年)をしたりと、なにかとこの曲は特別扱いを受けている。そうなるのはなぜかと考えると、他の曲には無い下記の特徴があるからだろう。
@冒頭楽章が衝撃的に始まり、そのままのエネルギーと緊張がコーダまで続いている。
A冒頭楽章が短調になっている。
B前3楽章もそうであるが、最終楽章が稀に見る重厚な音楽になっている。
C全4楽章が大変に緊密な関係を持っている。
という4点に尽きると思う。
@について。他の作曲家の作品は言うに及ばず、こんな音楽は過去無かった。
Aについて。モーツァルトですら、たった2曲しかない短調の交響曲がことさらにクローズアップされている。この頃の音楽は長調を主体とする時代だから(まあ、今もそうだが)、序奏はともかくとして冒頭楽章本体が短調であることは、それだけでも注目に値することだったのではないかと思う。
Bについて。演奏会である老兵が「皇帝だ、皇帝万歳」と叫んだという、ネタかと思われる逸話もある。これは当時の交響曲の最終楽章が冒頭楽章と比べてやや軽めになっているのが通常のパターンだったという慣習が根底にあるのだろうか。
Cは、やたらと目にする「有機的統一」に言及する解説で有名だ。シェンカーの解説も、実際には何度も何度も聴いていれば誰でも少しはわかってくることじゃないかと思ったが、レコードの発達前のことならば普通の人は何度も聴けず、そういう考えには到達しなかっただろう。
当時の有識者とかがこんな具合に洗脳されてしまっているので、クラシック音楽の文化に慣れていない人にはいたしかたないことかもしれない。しかし、実際にはベートーヴェンはそんな底の浅いものではないってことくらいは少し考えておいてほしいものである。「いやいや、エロイカだ!」
さて、クイズの答えは全休符ただ1個である。第1バイオリンだから、次の小節は休みなんだな。
*1
言いたいことはわかるが、小難しく書きすぎ。もっと簡単に書けるはず。
(2009.11.14)