「これこそ正しいベートーヴェンの聴き方」
作曲の動機が必要ですか?
なぜ作曲したのか(曲の成立背景とは)
作曲家は、なぜ作曲するのか。
どうしてこんなことを書くのかというと、どうも、音楽というものを感情のおもむくままに書いたかのような受け取り方をしている人がいるからである。
作曲家は、仕事で作曲しているので、多くの曲は、自分の勝手な都合で書くわけではないはずである。たとえば18世紀の作曲家は、貴族のおかかえであったり、教会専属であったりするので、バッハは、毎週教会のために何かを作ったし、ハイドンは貴族のために交響曲を作ったのだ。ロンドンへ行って異国の聴衆のために作曲したこともあった。
教会のために作曲することでお金を得ているのであるなら、(バッハはそのようなことは無いはずであるが)「神様、あなたなんか大嫌いだ、こんちくしょー」などという気分でも、敬虔な教会音楽を書かねばならないことになる。これはつらい。
貴族のお楽しみのために作曲するのならば、たとえばチャイコフスキーの「悲愴」交響曲のようなものばかり作ってしまったら、「そんなものはいらぬ。もっと軽やかで楽しいものを作れ」と、叱られるはずである。不幸のどん底でも、楽しい曲を無理やり作らねば、お金がもらえないのだ。これもつらい。
他には、機会音楽という種類があって、これは「頼まれ仕事」とほぼ同じである。たとえば「新しい劇場が出来たので、記念に作曲してくれ」というもの。まあ、気分が乗らないのなら断ればいいだけのことである。
もちろん、楽しいから楽しい曲を書き、悲しいから悲しい曲を書くなら、苦労はいらぬ。しかし、曲を求める人は、作曲家の感情にはとんと関係ないのである。頼まれたからには感情を押さえ込んででも作曲するのだ。それがプロフェッショナルなのであろう。お気楽で生きていてもレクイエムを書き、親が死んでも楽しいワルツを書くのだ。また、短いピアノ曲なら1日や2日で作曲を完了するかもしれないが、いざ30分の交響曲を作るともなると、普通の人なら数ヶ月はかかるものである。その間、どんな精神状態でいたのか。嬉しいこと楽しいこともあれば悲しいことつらいこともある。満腹にもなれば空腹にもなる。間抜けな妻の小言を聞かされる場合もあれば、誰かと恋をするかもしれぬ。曲を作っている間に、自分も変わりつづけていくのである。
政治的な事情というものもある。ショスタコービチは15曲の交響曲を作ったが、よくベートーヴェンと比較された。有名な交響曲第5番が、ベートーヴェンの同番号と比較されるのだ。もう、大変なプレッシャーだ。ものの見事に作曲したから良かった。しかしこの曲が何を表しているかということで、過去には誤って解釈されたものだ。たとえば第4楽章、一聴でわかる。あれが勝利の交響曲であるはずがない。しかし、かの時代かの国では、そのように思われていたのである。そして、さらにベートーヴェンに対抗することが要求されていくのである。交響曲第7番「レニングラード」もそうである。何が込められているかは、各自で調べていただきたい。その込められたものは、ショスタコービチ生前は、隠されていたのである。
(例の「ショスタコービチの証言」は偽書というのが通説であるが、そうでなくても屈折したものを曲に感じ取るのが正しい聴き方であろう。平和な日本では考えられないことである)
19世紀は、ベートーヴェンも含めて、比較的自由に作曲できた時代といえるだろう。ベートーヴェンにおいて、作曲の動機は下記のようなものである。
(1)演奏会で、自分がピアノを弾くために。
ピアノソナタ、ピアノ協奏曲、ピアノを含む室内楽。
(2)純粋にビジネスとして頼まれたから。
民謡編曲。「エグモント」への音楽。弦楽4重奏曲のいくつか。
(3)以前から、どうしても書きたかった。
交響曲第9番「合唱」(とくに最終楽章)
(4)友情から。
ピアノ変奏曲、ピアノ3重奏曲のいくつか。
(5)実力を見せるために。
交響曲の大半。
(6)つい、ノリで。
「ヴィットリアの戦い(戦争交響曲)」
(7)芸術上の追求から。
後期の弦楽4重奏曲。
じつは、ベートーヴェンの作品は、自分の個人的感情はあまり関係無かったりする。晩年、甥のカールで悩んだベートーヴェンであったが、作品数が減ったとはいえ、その悩みが曲に化したということはない。失恋が多かったとはいえ、それが曲になったことも、まあ、無い(あっても、隠しただろう)。いわゆる「不滅の恋人」を表す曲も無い(あれば、研究者たちが悩む必要も無い)。
「ハイリゲンシュタットの遺書」に代表される難聴の悩みも、甥に代表される家庭問題も、曲には明確に表現されていないのである。そこがプロのプロたる所以であろう。
それよりも、作曲する動機を知らなければならない理由があるのだろうか? わかったからといって、曲を深く味わうこととは全く関係ないのではないか? わかればうまく演奏できるとでもいうのだろうか。彼の音楽は、それ自体で独立し完結した芸術なのである。
「題名が必要ですか?」にも通じる話であるが、音楽を聴かずに別のものを読んで音楽の何がわかるというのだろう。音楽という芸術の分野を、なめてかかっているのか。それとも、文字で読んでみないと不安なのか、心配で夜も眠ることができないのか。楽しめないというのか。演奏できないというのか。
あえて書こう。古典派は絶対音楽の時代だ。つまり音楽に全てを求める時代なのだ。たしかに、歌詞があるとか文学その他を作曲のきっかけにしたものもあるだろう。しかし、歌詞があるものは別として、純粋器楽である場合、音楽そのものが全てであり、その曲で全てが完結しているのである。曲の本質を、その曲以外に求めるのは、作曲家に対して失礼である。
(2002.1.24、2005.12.19、2008.06.29)