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                   発責 大館市東台6-5-83  鷲谷豊

  北羽歴史研究会 会報 NO.226 2010(H22)年10月1日

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■  10月19日 古文書学習会を開催します。  

 古文書学習会を開催 1019日(13:1015:20於大舘市中央公民館

         記

テキスト1、嘉永六年、神文について(大葛金山・荒谷家文書)  

       金山を出奔した坑夫たちが書かされた神誓書は…

    2、澤三位殿宛佐竹義堯返書控         講師千葉克一

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 9月16日学習会終る。……テキストの古文書資料について補足します。 

 1、赤坂朝光による一揆鎮圧 2、小場義成の大館城入りについて、の項目

による。始めは『大館市史』『大館の歴史』の阿仁比内一揆の誤記部分を明らか

にする。誤記は、小説物語『大館城太平記』からの引用によることが指摘され

る。また「佐竹義成君略伝」の一部引用誤りについても指摘される。 

 大館城普請奉行に大塚九郎兵衛、青柳喜兵衛。   

「先祖申伝之覚  一、青柳氏 桓武天皇葛原親王流 常陸大丞良望末流、北

条の分レニテ御座候… 一、鎌倉より常陸へ御供八拾三騎之内御座故 中川

ニテ最初に青柳と申候、扨又野口四郎殿御改易の時分野口へ太田より御仕置仰

せ付けられ参り候、其の後長倉遠江殿御改易の時分長倉へ引越、西の館罷有、

侍五拾人御足軽弐百人配り近辺支配仕り相勤申候事。 一、慶長七年御当国御

下向の時分、青柳三之丞御供相勤御足軽弐拾人引連れ罷下り候、鶴形村館に罷

有候て近郷支配仕り候に付、祖々父喜兵衛鶴形の御番所立置き自今ならず相勤

候事。 一、慶長年中大館城普請之奉行大塚九郎兵衛.青柳喜兵衛仰せ付られ候

相勤め御普請相極め候上(完成後)、小場宗兵衛(義成)御城に被仰付移り申時、

三之丞も御足軽弐拾人召連れ参り候事。…。」青柳文書(秋田県公文書館資料)

註:大塚九郎兵衛は久保田より派遣の普請奉行。長岡大臣御書、佐竹歴代の義

昭公義重公義宣公の御書(勲功書)を与えられ重鎮とも察しられる。大館

城普請以後は久保田に戻る。註:小場義成は普請完了後に大館へ移動した。

◆大館城主は秋田将監英李(ショウゲンフサスエ)・慶長三年浅利頼平死亡により大館城は

秋田直接の支配に戻る。大館城主には秋田実李の弟忠次郎がなり名前を将監ショ

ウゲンと名のる。英李フサスエは本名だが日常的には使用しない。先の学習会でヒデス

エは言い間違いでした訂正させて頂きます。テキスト系図にはフサスエとあります。為念。

◆元浅利士分杉沢氏の子勝政が檜山小場氏へ、同浅利家来より足軽23人召抱える。 w

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戊辰戦争出羽戦線記「澤為量・奥羽鎮撫副総督の征討記録から」

 奥羽鎮撫を担う公家(クゲ)為量(サワタメカズ)の進軍在陣等の記録と諸情報を読む。

 大館在留13日の記録も。神宮滋(カミヤシゲル)著・無明舎出版刊、A5211頁、\2100

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■ 澤三位為量から秋田藩主佐竹義堯への文書   

一筆啓達致候、追々炎暑の節に候得共、弥御安康珍重に候、然ば昨日石塚源一郎、

石井貞之進、佐藤時之助を以て巨細御厚諭示聞され、且演説書までも御差添にて拝

承一々御配意の程、肺肝(ハイカン)に銘じ感佩(カンハイ)致し縷々奉謝候。さり乍ら当春奥

羽鎮撫の大任を蒙り遥々東下に付ては兼て御承知の通り朝廷の御素意従来、干戈を

先し候義は決して御本志にも存らせられず候段は申す迄もこれ無き候得共、

 もし心得違い王化に不服の者はやむを得ず征討いたし候ほか、これ無きは勿論の

事に候処、会津庄内は益て暴虐を募り候哉に、仙台等より種々申し出候趣も有之候

に付、夫々征討出兵の命令も相下し、追々国境へ討入等促も相達し候得共、一向は

かばかしき討入りも致さず候折柄、容保(カタモリ)儀仙台米沢の軍門へ降伏し、

謝罪嘆願書差出候由にて、奥洲列藩連印を以て嘆願書申出候哉に候得共、更に其の

実効もこれ無く、表には城外に謹慎などと申立候得共、陰には益て暴虐を募り、

越後辺諸所へ蔓延し、彼地小藩ら悉く椋奪且つ官軍へ抗衡数日の戦争にて、人民等

相苦しみ候儀一方ならざる哉にも相聞こえ 且、奥羽盟約の列藩、面には一時解兵

の儀を申し立ておき、陰には会津、庄内へ応援の為、官軍へ抗(アラガイ)候趣きも風評

これ有。 いわんや当領へ近々出兵相迫り候儀、是又何等の所為に候哉、一向解し

兼ね候条々少なからず、其辺の情実如何御承知候哉。

 演説の御書面については及ばず乍ら兼て不心得にも無之、且東下以来朝廷より逆

賊征討速やかに成功遂げ候様承り及び、度々御催促の廉々(カドカド)有之候処、奥羽の

列藩是如くの為体(テイタラク)にて時日を測らず遷延に押移り今もって寸功奉せず候儀、

実に朝廷に奉り恐入り候儀は、日夜焦慮致し居り候儀、御推察給わるべく候。

 兎角不日(九条殿)当領へ着陣の上尚篤と評議尽し度く思焦り相待居り候処

 □□の儀当領へ差入候儀猶予致さる可き旨使者以て御断り相成申候段承り及び、

両卿に於いて進退如何致され候哉。是又殆ど当惑の次第なり。

尤も我等の於ても当地立ち退きの儀、使者を以て相達し候得共、連日の霜雨かつ九

条殿よりも滞在の儀候様示し越れ、貴方は一方ならず御苦労の程、察し入り候得共、

何分腹蔵無く御返書承り度く因て草々如此候也、何分にも両卿へ対顔の上、篤と御

答も相達す可き間、左様御承知給せらる可く候、因て取敢えず御答申入れを候也。

    佐竹中将殿                     為量  」

  註:当文書は澤為量が能代滞在中、秋田藩が仙台藩同盟の恫喝を恐れて、九条・醍醐

    の一行の盛岡からの秋田入りに、断り文を送った事態の状況が表れている。 w

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