発責 大館市東台6-5-83  鷲谷豊

  北羽歴史研究会 会報 NO.227改版2010(H22)年11月1日

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   11月18日 研究発表会を開催します。  

 研究発表会を開催 11月18日(13:1015:30於大舘市中央公民館

 

 テーマ「神裁」と「神文」についての一考察 …  講師 千葉克一氏 

      梅津政景日記から「神裁」を、荒谷家文書から

          「神文」をとりあげ、その意義と時代を考える  

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■ 10月古文書学習会終る

 先に澤三位為量から佐竹義堯宛文書を再勉強して佐竹義堯返書を解読。大葛金山

文書の解読は出来たが理解はまだまだ、18日の千葉講師の発表に引き継がれます。

この際ご先祖の古き時代をもう少し探ってみたい。各位のご参加を期待します。w 

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◆ 茂木屋敷跡発掘調査説明会雑感      高松 毅

 平成221017日{日)十二所町のほぼ中心に位置する茂木屋敷跡(十二所

字元館1-1)の発掘調査説明会が行われた。午前午後の二回現場にて発掘調査担

当の説明を受けた。   茂木氏は久保田{佐竹)藩の引渡衆二番座の家格で、天

和三年1683)6月梅津氏に代って十二所所預に任命され、その後明治2年(1869)迄

10代187年間続いた家柄である。

城館は南側台地の「台にあった塩谷氏の改築した再来館」から、いつ頃現在地に移

されたものか年代不詳であるが、広大な屋敷跡である。 田町・片町・中町等の侍

屋敷に囲まれて東西149間(約268m)、南北40間(約72m)といわれていた。面積は

19.296m2。  今回公民館建設のために発掘された面積は別図の様に東西54m、

南北24m、面積1.296m2、なので極一部分である。また屋敷跡の建物配置図や記

録等は残っていないので、どういう建物があったかは解らない。明治五年(1872)

十二所士族屋敷図によると「大島源治」「塩澤良太郎」の名前が見えるが、図面は

正確な縮尺ではないので、位置の確定は出来ない。 大島源治は佐竹氏歴代の家臣

201石を給されて鑓の師範を務めた。戊辰の役では由利口で戦い、軍目付として

活躍した。澤三位卿一行が大館~能代に滞留した時、次男久直を使者として能代へ

向わせ、参謀大山格之助に藩主の意向を伝えさせた。 戦後明治元年1868)10月

に南部美濃父子を東京へ護送した後、翌明治二年1869)抜擢されて十二所支配と

して十二所郷長に任命される。これは須田政三郎盛貞が推挙したと言われている。

私見だが南部藩にニラミをきかせる人物として若年の茂木氏に変え起用されたの

ではなかろうかと推察される。 「塩澤良太郎」は茂木筑後の家臣で、御直臣四家

の一人、50石を給され御膳番、祐筆を務めた。芝園・幽軒あるいは蘭斎と号し、

安政五年(1858)より十年間私塾を開き、子孫の教育に当った。 戊辰の役に出陣し

て活躍し戦後、「十二所口戊辰戦争実記」を著述、また明治八年には孝養の徳行に

より県庁から表彰を受け、明治十年(1877)から二年間十二所戸長に任命された。

 また茂木屋敷東側の元館町には、茂木家臣団屋敷があり、従って従来の面積が小

さくなっているものと推察される。成章書院跡は、内町道路に面して官地旧郷校と

表示されている。これは書院が狭小となり元治元年(1864)石井祚景氏が、敷地建物

を新築し献じたもので、戊辰の役で自焼、明治三年(1870)扇田の大沢和三郎氏が千

円を寄付し再建。その後成章義塾を経て、明治七年(1874)成章学校創立。明治15

(1882)成章小学校と改称。明治19年(1886)5月火災で焼失、長興寺・旧御蔵で授

業を続け、明治21年(1888)新築校舎落成、ここから発掘現場の旧成章小学校舎に

移る。その後増改築を重ねたが、平成四年三月落成郊外へ新築の現在地(十二所太

190)に移転す。~以上が歴史的な経過だが、発掘の説明を受けて、感じた事を

箇条書きしてみることにする。

1)小学校建築地であったこと。花輪線の(当時は秋田鉄道大正四年開設)線路縦断など

 攪乱があったこと。発掘面積が少ないこと。

2)建物跡16棟の内、15棟が掘立柱建物と確認をされたが堀立柱建物は何時頃ま

  で建築されたのか。又何に使われた建物か。

3)色で区分された堀立柱建物の建築時期は?(註:年代順五色表示だが年代年は無説明)

4)石段がある盛土部分は当初から存在したのか或は校舎建築時に土盛りをしたものか。

5)建物は戊辰の役で自ら火をかけさせたが、その痕跡は?

6)溝と道跡は調査区の外でどうなっているのか。

7)出土遺物については殿様の居館としては出土したものが少ないと考えられるが、

 これは生活住居部分の発掘では無いからなのか。

8)居館が焼失しても金属類(鍋釜鉄瓶など)は残ると思いますが、これは焼跡か

 ら回収したものでないでしょうか。 

9)約120点出土の青磁の破片の復元は可能でしょうか。

10)貝焼きに使用したとされる貝風呂(キャフロ)は初めて見るもので興味をもった。

  この附近で製造されたものか? 

11)銭が展示されていましたが、出土したのはどこか、

12)柱穴から完形の漆器椀蓋が出土しているが、埋納の例はあるのでしょうか。

13)井戸の底からは何も出土しなかったのですか。・・・ 」

◎まだまだ沢山疑問がありますが、武家屋敷の発掘例としては貴重なものだと思い

 ます。一日も早く調査報告書の完成を待っております。 終

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