猫の手 (1)


「こんにちは」
「ああ、宮野君」
 袋入りドッグフードの商品補充をしていた店長は、俺の姿を見て作業の手を止めると、かたわらの猫缶4個セットをつかんだ。
「いつものでいいかな」
「はい、お願いします」
 広くない通路を、店長に続いてレジまで歩く。通りに面した右側の壁に三つ並ぶペットケージの中では、子猫や子犬が興味深げにこちらをうかがっていたり、熟睡していたり。
「トイレの砂はまだある?」
「ええ、大丈夫です」
 駅前から続くアーケードが途切れ、石畳が横断歩道へと繋がるその向かい側。商店街の末端に位置するこのペットショップは、規模こそ小さいものの、固定客をつかんでそれなりに繁盛しているようだった。二階が動物病院だというのも、支持される理由の一つだろう。
「そっちの店の方はどうだい? しばらく行けてないけど」
「ぼちぼちです。娘さんがお子さんと一緒に戻ってらしてたんですよね」
「そうなんだよ」
 相好を崩す店長は、俺がいま勤めているバーの常連客。俺の雇い主であるマスターの旧友でもある。初孫ができたと聞いたのは確か、一年ほど前だったか。
「かわいい盛りでしょう」
「いやほんとに、孫は子よりかわいいとはよく言ったものでね……」
 今日は他に客の姿はなく、俺はたわいない雑談を続けながら、子猫の眠っているケージに目をやった。そして、その愛らしい寝姿を眺めるある人の姿を想像した。この店とうちのバー、両方の常連客である彼。しかし、今日はどうやら現れそうにない。
 がっかりしたような、でもほっとしたような、複雑な気持ちで視線を転じる。その先では、レジ横の棚の最上階を定位置にしている看板猫のゲンが、今まさに昼寝から目を覚まし、のっそりとした巨体を起こして大きなあくびをしたところだった。
「いつ見ても大きいですね、ゲンは」
 ゲンという名前は、弱々しかった子猫の頃、元気に育つようにとの願いをこめてつけたのだそうだ。その願いどおり、いまや貫禄十二分に育ってしまった彼は、長毛種なことも災いして、初めて見る人にはタヌキか何かと思われることが多いらしい。
「はは、そりゃ、ユリと比べたらねえ。ユリも元気かい」
「おかげさまで」
 俺の勤めているバーにも猫がいる。白い毛に青い目のメスで、名前はユリ。どことなくお姫様然としたところのある、行儀のいいきれいな猫だ。昼間はマスターの家で飼われており、夜になるとキャリーに入れられて「同伴出勤」してくる。なので餌はだいたい家で食べてくるのだが、マスターの家は店のすぐ近くにあり、夕方たまに彼女が自主的に出勤してくることがある。その時は開店準備中の俺が餌をやらねばならないため、こうして猫缶の買い置きを切らさないようにしているのだった。
 受け取ったお釣りとレシートを財布にしまっていたら、ゲンが棚の上から降りてきた。が。
「あ!」
 店長の声とともに、何か軽い金属が跳ねる耳障りな音が響き、小さな紙切れが床に散乱した。驚いた子犬が一匹、キャンキャンと鳴き始める。
「あーあー」
 店長の嘆きを尻目に、降りたった床の上にでんと座り、毛づくろいを始めたゲン。そばには四角い、菓子の空き缶らしきものが転がっている。おそらくゲンが降りる途中にぶつかったかどうかして、これの中身をぶちまけたのだろう。だからといって猫が自分で後片付けをするはずもなく、あきらめたように床にしゃがみこんだ店長は、散らばった紙を拾い始めた。俺も手伝う。
「悪いね」
「いえ」
 紙の正体は、飲食店や映画などの割引券の類だった。
「妻がこういうのが好きでね。でも、後生大事にとっといては端から期限を切らすんだよねえ」
 店長がきまり悪そうにつぶやいた。
 あらかた集め終わり、拾い残しはないかと辺りを見回すと、太い前足が一枚踏みしめていた。はみ出た文字に目を惹かれる。
「チーズ?」
 手を出すと同時に、ゲンがその足をひょいとどけ、顔を洗い始めた。拾い上げた俺の手元を、なかなか鳴きやまない子犬をケージから出してなだめていた店長がのぞきこむ。
「『フロマージュ亭』の割引券かな?」
 フロマージュ亭。商店街とは反対側の駅前からすこし奥まったところにある、チーズフォンデュが名物のレストランだ。レンガの壁にツタの絡む洒落た雰囲気の店で、この街に来てからずっと独り身の俺には今のところ縁のない場所だった。
「期限切れてない? ならそれ、あげるよ。誰か、いい人でも誘って行きなさい。デートにはぴったりの店だよ」
「いませんよ、そんな人」
 否定しながらも、頭には先ほども想像した人物を思い浮かべていた。

 初めて会ってから二年近くが過ぎた。
 俺が今の店で働き始めて間もない頃のクリスマス・イブ。休憩から戻ると、彼が来店していた。
 実は最初、男か女か、本気でわからなかった。身長は170cm前後、痩せた身体に皮膚の薄そうな色白の肌。長い前髪をサイドに流した髪型からも、その髪に隠れぎみの目鼻立ちからも、深いボルドーのタートルネックに細身のパンツを合わせた服装からも、まったく性別が読み取れなかったのだ。
「マキです。よろしく」
 その低い声でやっと男だと察しがついたが、「マキ」という名前は女性を思わせ、そういう職業の人なのだろうかと一瞬考えた。しかし、いわゆる元男性の接客業従事者にしては、逆に女らしさのアピールがなさすぎる。クリスマス・イブに自分の店でなくここにいるというのも変だ。
 名前ひとつに疑問はつのったけれども、彼は会話を弾ませるよりは静かに過ごすタイプらしく、また常連らしい彼にあれこれとものを尋ねるのもはばかられ、俺はそれを飲み込んだ。そして「何かあたたかいものを」という彼の希望に応えて季節のカクテルを一杯供した。
「『マキ』は苗字だよ」
 彼が帰った後、マスターがグラスを磨きながらぼそりとつぶやき、俺はようやく呪縛から解かれた。
「悩んでるの、わかりましたか?」
「まあ、そうだろうなって」
 言われてみれば、「槇」という可能性を考えもしなかったことの方が不思議だった。
「なんで思いつかなかったんだろう」
 嘆息すると、磨きあがったグラスを透かして
「あれじゃしょうがないんじゃないかな」
 という答えが返ってきた。

 彼は性別とともに、年齢も不詳だった。細いシルエットは時折、成長途中の少年のようにも見える。が、薄暗いバーの片隅で一人酒をたしなむ姿は、それなりに年を重ねたいい大人の姿にも映る。
 あまり多くを語る人ではない。俺が彼について酒の好み以外で知っていることといえば、物書きらしいこと、猫好きで、自分でも猫を飼っていること、チーズが好きなこと。
 そして、浅くない恋愛遍歴があること。
 彼がそう明言したわけではないが、話の端々から、彼の恋愛対象は男性だと察しがついた。それは意外ではなく、むしろ、女性を恋愛対象としている方が違和感がある気がした。
 だが、それだけで俺が彼を気にかけるようになったわけではない。俺が以前勤めていたバーは繁華街にあり、客層は派手で芸能人なども多く、ゲイもそう珍しくはなかった。彼らの恋愛模様が話題にのぼることもあったが、自分に縁のある話だと思ったことはなく、自分が男性に興味を抱く可能性など考えたこともなかった。
 俺がこの感情を彼に対して覚えたのは、職場ではなく、このペットショップで彼をたまたま見かけたときのことだ。
 今日と同じように買い物に来ていたその日。店内にいた俺は、ショーウィンドーの前に彼が立っているのに気づいた。そして、ガラス越しに目にしたその表情に数秒、息をするのを忘れた。彼は子猫の眠るケージを、とても穏やかな、優しい笑みで見つめていた。いつも伏し目がちで寂しそうな印象ばかりだった彼の、冬の陽だまりのようなそれに、俺は一瞬で連れていかれてしまったのだ。
 以来、彼と顔を合わせるたびに、心が沸くのをなだめながら接する日々が続いている。しかし、この思いを告げることには大きなためらいがあった。
 まず、性別の問題。彼はゲイかもしれないが、俺は今まで男とつきあったことはない。好意を告げて、もし彼が受け入れてくれたとして、本当に自分が男性とつきあえるのかどうかがまったく読めない。やっぱり男は駄目でした、などということになったら彼にとても失礼だ。
 そして、現在の関係。彼が贔屓にしているバーの店員である俺。好意を告げても彼が受け入れてくれなかった場合、彼はその後、店に来づらくなるだろう。二度と来ないという可能性も大いにある。うまい酒と心地よい時間の提供を責務としているはずの自分が、大切なお客様からそれらを奪い取ってしまうことになる。それはバーテンダーとしての矜持にもとる行為だ。
 と、いうわけで、俺は最初の一歩すら踏み出せず、また、踏み出さずにいたのだが。

「じゃあ、そろそろ失礼します。これ、ありがとうございました」
「こちらこそ。また近いうちに顔出すよ」
「お待ちしてます」
 まだ子犬を抱いている店長の声と、ゲンの尻尾のひと振りを背に、店を出る。

 踏み出すにしろ踏み出さないにしろ、俺は彼のことを知らなさすぎる。
 この関係に、多少の変化くらいはあってもいいのではないだろうか。

 手にした紙切れを眺めつつ、そう考えている自分がいた。