狭間 (3)


 俺は、絶句していた。
 彼はうつろな顔で月を見つめていたが、やがて目を伏せた。
「つまらぬ話をいたしました。酔いどれの法螺話と思って、どうぞお忘れください」
髪をかきあげる姿はひどくなまめかしく、それでいて、どこか神々しいような気すらした。
 にゃあ、という声がした。あまりかろやかとも言えぬ足取りで現れたのは、老いた白猫。
「野良猫です。このような穴だらけの寺でもおもてよりは暖かいとみえて」
猫は俺を一瞥すると、気にするふうもなく破れかけの座蒲団の上に丸くなった。定位置らしい。
「冷えてまいりました。酒が効れぬうちに、寝るとしましょう」



 朝靄がたちこめていた。彼は男を見送って、去りゆく方をしばらく眺めていた。あの男が同じ道を通ることがあっても、たぶんもう二度と、ここを見つけることはあるまい。
「罪つくりな奴よのう」
帰ってきた彼に語りかけたのは、猫だった。白い髭に覆われた老獪な笑顔。
「なぜ、話したのじゃ。可哀想にあの男、一晩中悶々としておったぞ」
彼はうっとうしそうに答えた。
「すこし、似ていたのですよ」
「ほほう。誰にじゃ?」
この問いには答えなかった。猫が、嗤う。
「そのように執着しておるからここを離れられんのじゃ」
「………………」
「ほっ、だんまりか。坊主の慰み物の分際で」
揶揄する口をきっ、とにらみつける。
「おうおう、そのような目でにらまれたら蕩けてしまうわい。くわばらくわばら……」
白猫はひとつあくびすると、縁側から出ていった。

 彼は部屋の隅の壁にもたれかかった。結い紐をほどくと、つややかな髪が乱れ落ち、うつむいた顔の半分を覆った。


 誰の腕の中でも、想っていた時期もあった。果てる時、名を呼んだこともあった。

 もう、忘れたと思っていた。

 なぜ、逃げてしまったのだろう。なぜ、共に燃え尽きてしまわなかったのだろう。

 愛していた。
 愛していたのに。


 ふと、顔を上げた。開けっ放しのふすまの向こうに、あちこち錆びついた御本尊が、笑いとも泣きともつかぬ顔でたたずんでいる。
 いったい、いつまでこのような暮らしが続くのであろうか。百の春秋はゆうに越えた。とうに朽ち果てているはずの肉体は、いまだあの時と変わらない。ひょっとすると腐った骸が、もう何もかも腐り落ちた骨のみが、御仏の力でもって動かされているのかもしれない。いや、もしかすると御仏などではなくて、何か、もっと別の大きなものにだまされ、操られているのかもしれない。いや、過去も今も、未来すらも、すべては夢なのかもしれない。わからない。何もわからない──────


−終−