業 (1)


 僧は立ち止まった。
 昨夜、夢の中で賜わったお告げが指したのはこの寺に違いない。何と荒れきった寺であろう。御仏は、この未熟者にこれを再度興せと言われたのだろうか。
 いや、あの神々しいお声はこうおっしゃった。「客人となれ」と。
 しかし、このような所に本当に人が住んでいるのか?
「もし」
大きな声で呼んでみた。返事はない。
 ひょっとすると、相手は人ではないのかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。軽い身震いは、袈裟の裾をなびかせた初秋の風のせいばかりではなかった。
「もし、どなたか居られぬか」
 もう一度呼ぶ。夏の終わりを告げるツクツクボウシの鳴き声が途切れたとき、返事は、意外な方角から聞こえた。
「はい」
 すずやかな声は、玉のよう。
 現れた人物も、また。
 荒れ放題の庭に立つ人影、そこだけを美が切り取っていた。ぬばたまの黒髪、今にも透けて消えてしまうのではないかと思しき肌の色。一瞬女人かと思ったが、その体つきに女らしいふくらみはなく、あくまでもたよりなげな細い姿は「尋常ならぬ美麗さと雰囲気を備えた男」に相違なかった。
「このような所から申し訳ありませぬ、薪の支度に少々手間取ってしまいまして。どうぞ、お上がりくださいませ」
いろいろな意味で呆気にとられている客人を、麗しい主人は中へと誘った。


 主人の白い手が茶をすすめる。
「ご一服、どうぞ」
「か、かたじけない」
僧はひどく緊張していた。何しろ、「客人となれ」以外のご指示がなかったのだ。どう振舞えば良いのか皆目わからず、しかも相手はこの世のものとは思えないほどの麗人。彼の解き放った長い髪がさらりと音を立てるたびに、若き僧の鼓動は高鳴り、我知らず頬が紅潮していた。
「あっ」
僧は湯飲みを取り落としてしまった。淡い緑の液体が膝と畳を濡らす。
「こ、これは申し訳ない、その……」
主人は僧のあまりのうろたえぶりに、可笑しそうな、かつ慈愛に満ちた顔で、笑った。
「そんなに固くなられずともよろしいのですよ。火傷なさいませんでしたか?」
笑顔に見つめられた僧は、顔中を真赤にしてただ、うなずくだけであった。その膝に手拭いが押し当てられる。じっとりとした、何やら情けない感触が伝わってきた。
「こちらは洗って差し上げましょう。どうぞ、湯を浴びてきてください。着替えも用意いたしております」
「は、はい」
僧は裏手の離れに案内された。そこは狭いながらも風呂釜のあるちゃんとした浴室で、厚手の木蓋の隙間から湯気が立ちのぼっていた。
「ごゆっくり」
 肩まで浸かり、大きく息を吐く。すると、今までの緊張が湯に溶かされていくような気がした。外から、洗い桶で布をこする音が聞こえてくる。うながされるままに湯に浸かってしまったが、御仏のお告げで訪ねた人物に洗濯をさせるなど、自分はひょっとしてとんでもなく畏れ多いことをしているのではないか。
 ふと思い出したのは、濡れた着物を手渡した時の、主人の細い腕。あの細腕で水を汲み、薪をくべて風呂を沸ててくれたのだろうか。自分のために。
 また、鼓動が激しくなった。こんなことではいけない。御仏に仕える者が、こんなことでは。
 ことさらに飛沫を立て、顔を洗ってみる。御仏はぜんたい、何故私にここへ来いとおっしゃられたのだろうか。「客人となれ」とはどういう意味なのであろう。そしてあの主人は何者なのか。経帷子を着込んでいるが、とても死人とは思えぬ。やはり御仏に関わる人物なのだろうが、それにしても、何と美しい───
「お湯加減はいかがですか」
どきりとした。声は入り口の木戸の向こうからだった。
「ははい、丁度良い加減です」
「そうですか」
しばらく無言であった。高鳴りがやや収まってきた、その時。
「失礼いたします」
一礼して入ってきた主人は、髪をやや高い位置で束ね、たすきを掛けていた。からげた裾から、白く細い足が生えている。
「お背を、お流しいたします」
僧は心臓が飛び出しそうになった。
「えっ、そそそそのような、その、おお畏れ多い……」
ろれつの回らない真赤な坊主を後目に、主人は腰掛や手拭いを用意した。
「どうぞ」
僧は声も出せず、勧められるままに腰掛けた。湯が広い背中を踊る。
 強すぎず弱すぎない手拭いの感触が心地よかった。かちかちに固まっていた背がほぐれてくる。
「良かった」
「えっ?」
主人は笑みを含んだ声で言った。
「このままずっと緊張されているのじゃないかと思って、心配していたのです」
「ああ……、はあ、すみません……」
頭を掻く僧を見て、主人はさらに微笑んだ。
「お可愛らしい方ですね」
「…………」
照れくさいような恥ずかしいような、妙な気持ちになってしまった。いったいこの主人、幾つなのだろう。ぱっと見た印象では十六、七くらいで、青年とも少年とも言いがたいような容姿なのだが、とても十八の自分より年下とは思えぬほどに落ち着いている。
 いろいろ考えをめぐらしているうちに、もう一度湯がかけられた。
「立派なお体をしておいでですね」
「あ…はい、山で修行をしておりますれば」
「なるほど」
手拭いを絞る音を聞きながら、僧は思いきって訪ねた。
「あの……、御仏は、拙僧に何をせよとおっしゃったのでしょうか」
主人の動きが止まった。
「この寺に来て、主人殿の客人となれ、と、それしか伺っていないのですが」
「……私のもてなしを、受けてくだされば、良いのですよ」
 主人がつ、と立ち上がった。僧の前方にまわり、両膝をつく。
「それが、御意志です」
ぬけるように白い両の腕がのびて、僧の頬を捕えた。しめった手のひらは、上気した肌には心なしかひんやりと感じられた。動揺し、目線が泳ぐ。細い首が左前の合わせに落ち込んで、そこから肩の窪みが淡くのぞいている。白の一重の膝は湯をかぶり、肌にぴったりと貼りついている。濡れ光る長い睫毛が、ふらついた目を再び捕えた。僧の頭がくらんだのは、立ちこめる湯気のせいではなかった。
 唇は軽く、押しつけられただけだった。真赤な顔から離れた真白い顔は、ゆっくりと、下降していった。
「あ、あの」
相手のあわてぶりなど意に介さず、主人はひき締まった両足の付け根に顔をうずめた。
───!」
初めての、えもいわれぬ刺激に、僧にとっては嘆かわしいことに、体が非常に正直に反応してしまった。主人の頭が運動を始める。髪を束ねた結い紐がゆるみ、動きに合わせてずれていく。たまらず、呻き声が漏れた。
 僧はかなり早く昇りつめた。いけない、と思う暇もなく全身が一瞬、硬直した。その数秒後、ゆるゆると口を抜いた主人の小さな喉仏が二度、上下した。
「あ…………」
我に返った僧は、真赤な顔を覆って途方に暮れた。主人がおもむろに立ち上がると、その背から結い紐がすべり落ち、長い髪が踊った。
「ご心配なさらぬよう。御意志なのです。迷いを貯め込まぬように、との」
その言葉を聞いた赤い顔は、だんだんと合点がいったという表情になってきた。
 そうか。「客」とは、そういうことであったのか。
 では、この人物はその役目のために、このような奇妙な場所に一人住んでいるのか。
 主人は身をかがめて、蛇のようにとぐろを巻いた白い紐をひろった。
「では、ここで失礼いたします。夕餉の支度をしますれば」
かすかに赤みを帯びた頬を追って、僧の目は閉まった後も木戸を見つめていた。