時間外指導 (3)


 この失敗の後から、俺は羽鳥さんに対して壁を感じなくなった。
 以前はあのクールでシビアな態度に、自分が拒絶されているように感じて気がひけていた。でも羽鳥さんは、もともと誰に対してもそういう態度をとる人で、別に拒絶しているわけではないとわかった。質問に行けば的確なアドバイスをくれるし、力が足りない部分はきちんとフォローしてくれる。慣れてしまえば、その日の気分や相手によってころころ態度を変えたりしない姿勢が潔くていいとさえ思えた。
 そうなると現金なもので、宿敵の表計算ソフトと戦う気力が出てきたし、情報管理の仕事もどんどん覚えたくなってきた。わからなければ羽鳥さんをつかまえて、徹底的に聞く。そのうち打ち解けてきて、最近は世間話なんかでも、自分から話しかけられるようになった。

「おい南」
波多野さんが声をかけてきた。
「お前のシャツ、なんかだらしないぞ。ちゃんとアイロンかけてるか?」
 うーん、やっぱり形状記憶シャツじゃダメか。
「俺アイロン苦手なんですよー」
「駄目だな、社会人失格!」
大森さんも混ざってきた。もともと課員が少ないからか、指導係でないこの二人にもよくかまわれる。
「ふーんだ。いいですよね妻帯者は、奥さんがかけてくれるんだから」
「羽鳥だって一人暮しだぞ」
そう言われて優秀な先輩を見る。白いワイシャツにはきっちりアイロンがかかっていて、ぴしっと折り目まで入っている。
「羽鳥さん、自分でアイロンとかかけます?」
「ああ」
「アイロン、コードレスですか?」
「そうだけど。それがどうかしたか?」
「俺むかし、アイロンのコードにアイロンかけてヒューズぶっ飛ばしたことがあるんです」
大森さんと波多野さんが一斉に爆笑し、羽鳥さんも噴き出した。

 一服しに喫煙所に行ったら、課長がいた。挨拶して隣に腰掛ける。
「どうだ、羽鳥の指導は。そろそろ音を上げてるんじゃないか?」
「そんなことないです。俺も早くあんなふうに仕事ができるようになりたいです」
 壁がなくなってみると、羽鳥さんは憧れるに足る先輩だった。仕事はできる。口数は少ないけど言うべきことはちゃんと言う。スーツの着こなしも文句なし。なんで彼女がいないのかが不思議なくらいだ。
 課長は満足そうにうなずいて言った。
「南を羽鳥の下につけたのは正解だったよ」
「どうしてですか?」
「もちろん、仕事の面で適任だったってのが第一だったんだがな」
課長は、吸っていた煙草をもみ消した。
「あいつ、根はいい奴なんだけど、なにしろ愛想がなくてとっつきにくいだろう。誰かの面倒でもみさせたら少しはくだけるんじゃないかと思ってな」
そんな意図があったとは知らなかった。ちょっと前の俺なら恨んでいたかもしれない。でも今は、その采配に感謝したい気分だ。
「お前の指導について時々相談してくるよ。まーお前、いかにも新人っぽくてかまいたくなるような奴だしな」
 最後の一言は余計だったが、羽鳥さんが俺のことを気にかけてくれていると知って、うれしかった。

 こんな具合に、仕事の方は順調だった。しかしプライベートは、来るところまで来ていた。
 あれから何度か電話したけど、ずっと留守電だった。
 しばらく経って、佳奈子の方から連絡があった。会社が終わったら話をしたいという。週末以外に会うのは社会人になって初めてだ。
 二人でよく入った喫茶店。会って、謝って、沈黙して。時々思い出したように口を開いて。
 聞いた内容は、好きな男がいるのは本当だということ、そいつは会社の同期だということ、昨日そいつに交際を申し込まれたこと、決して俺を嫌いになったわけではないこと、等々。
「わかった」
 こうして、俺達は終わった。

「二年間ありがとう」
佳奈子のその台詞で、つきあってきた時間を改めて認識した。長かったようにも、短かったようにも思えた。
 つきあい始めた頃は、隣にいるだけで幸せだった。顔を見ればうれしかったし、話せば楽しかった。
 結婚だって、ちょっとは考えてみたこともあった。
 それが、いつからだろう。笑う回数が減っていった。週末のデートも、なんだか義務みたいになってた。
 一緒にいることがあんまり普通になりすぎて、お互い、相手を大切に思う気持ちが薄れていたんだと思う。
 こうなることは予測していた。後悔もしていない。
 なのに、どうして胸が痛いんだろう。


「南」
「はい」
羽鳥さんに名前を呼ばれ、また何かやったかな、と思った。今日は何をやらかしてもおかしくない。
 でも、違った。
「今日は、何か予定があるか?」
「…いいえ?」
「よかったら飲みにでもいかないか」
驚いた。羽鳥さんに誘われるなんて初めてだ。
「どうだ?」
「は、はい、ぜひ」

 羽鳥さんに続いてのれんをくぐったのは、落ちついた感じの居酒屋だった。
「お、いらっしゃい」
にこやかで恰幅のいい、いかにも「飲み屋の主人」らしいおじさんに軽く礼をして、奥の方のテーブルにつく。
「よく来られるんですか?」
「時々」
 ビールとつまみをニ、三品頼んで、しばらくあたりさわりのない話をしていた。
「あ、どうも」
注がれて泡立つビールを見ていたら、
「何か、あったのか」
と聞かれた。
「そう見えますか」
「見える」
羽鳥さんは静かにビールに口をつけた。
 ちょっとためらったが、ここまでお膳立てされては言わないわけにいかない。俺は、彼女と別れたことを打ち明けた。羽鳥さんにこういう話をするのは不思議な気がしたけど、嫌な気持ちではなかった。
 羽鳥さんは何を言うでもなく、俺の話を聞いてくれた。その態度のせいか、次第に饒舌になった俺は、割り切ったつもりがどんどん化けの皮がはがれていって、しまいには羽鳥さん相手にくだを巻いていた。
「だいたいあいつ、用意周到なんですよ」
「そうか」
「男のことだって、なんでサークル一のおしゃべり女なんかに相談するんですか」
「うん」
「そんなの、俺に聞かせてるようなもんじゃないですか、ねえ」
「そうだな」
「そうでしょう? そりゃ俺だってひどいこと言っちゃったけど、でも……」

 愚痴も出尽くした頃、羽鳥さんが店の人に勘定書きを渡した。俺が財布を取り出そうとすると、
「いい。今日は俺が誘ったから」
「えっ、でも」
最後の方、俺、一人でガバガバ飲んでたような…。
「気にしなくていい。そのかわり、明日休んだりするなよ」
支払いをすませて立ち上がった羽鳥さんにポンと肩をたたかれ、なんだかすごく感激してしまった。ひとつひとつの態度はそっけない人だけど、俺のこと、気にかけてくれて、自腹を切ってまで愚痴聞いてくれて。思わず涙腺がゆるみそうになり、ぐっとこらえた。
「ごちそうさまです」
お礼を言いながら立ち上がった。ところが、思ったより酔っていたらしい。
「あれ?」
よろけた俺は、何事かと振り向いた羽鳥さんに支えられる格好になった。
「おい、大丈夫か」
「だいじょうぶ…」
じゃなかった。自力で立とうとしたけど目眩がして、俺はもう一度羽鳥さんにしがみついてしまった。ううう、世界が回る。
 なんとか目眩がおさまって、今の状況を考えてみるに。男が男を熱く抱擁中。
 まずいだろう、俺。
「す、すみません……」
よろよろ頭を上げると、戸惑ったような表情を浮かべた羽鳥さんと目が合った。羽鳥さんのこんな顔は珍しい。
 そりゃ、男に抱きつかれてもうれしくないよな。
「……歩けるか?」
「なんとか」

 とは言ったものの足元がおぼつかなくて、結局、店を出てタクシーを拾った。
「次は、もっといい彼女が見つかるよ」
眠りかけている俺の隣で、羽鳥さんは独り言のように言った。
「お前はいいやつだから」
ふだん、絶対にお世辞なんか言わない人の一言は、静かに心にしみた。