時間外指導 (4)


 終わってしまったことがふっきれない時、やけ酒を飲むのは理にかなっている。気持ち悪すぎて、役に立たない悩みなんてどーでもよくなるからだ。
 うわ、頭、重い……。
 しかし昨日、羽鳥さんにクギをさされている。這ってでも行かなきゃと、気力をふるって出社した。ところが。
「あれ?」
行動予定ボードの羽鳥さんの欄に「休み」と書かれていた。
「課長、羽鳥さんお休みなんですか?」
「ああ、風邪ひいたらしいぞ。変な声してた」
 昨日はそんな風には見えなかったけど。ひょっとして、俺の世話で疲れさせてしまったのかな。
 あの後、アパートには着いたものの一人で歩けなくて、タクシーから部屋まで肩を貸してもらったのだ。俺の部屋は四階なんだけど、安アパートでエレベーターなんてないから階段。さぞかし重労働だったと思う。
 今日会ったらちゃんとお礼が言いたかったんだけどな。俺の分のタクシー代も払ってないし。金曜だから、今日がダメとなると来週まで機会がない……
二日酔いの頭でぼんやりそんなことを考えていて、ふとひらめいた。
 そうだ、羽鳥さんちに行けばいいんだ。
沿線が同じで何度か一緒に帰ったことがあるから、最寄駅は知っている。社員名簿を見れば詳しい住所がわかるはずだ。お礼とお詫びとお見舞いを兼ねて、ちょこっと顔を出してみよう。それに、いつもクールな先輩の私生活にも、ちょっぴり興味があるし。

 『羽鳥』という表札を確認して、少し緊張しながらインターホンのスイッチを押した。ややあって、
『はい』
と声が聞こえた。インターホンなので詳しくはわからないが、いつもよりかすれて低くなっているようだ。
「すいません、南です」
『南?』
羽鳥さんは驚いたみたいだった。
『何かあったのか?』
「いえ、何もないんですけど。ちょっとお見舞いに」
少し間があって、
『今出る』
と、切れた。
 しばらくして、ドアが開いた。眼鏡なしで髪もセットしていない、普段着の羽鳥さん。こういうふうにしてると意外に若く見えるなと思った。
「すみません、突然お邪魔して」
「どうしたんだ?」
「あの、昨日のお礼が言いたかったんです」
ちょっと頭をかいた。
「ほんとは会社で言うつもりだったんですけど、休んでらっしゃったから。風邪ひいたのが昨日つきあってもらったせいだったら、それも謝んなくちゃと思って」
「……お前のせいじゃない」
羽鳥さんがそう言った直後、
「俺のせいだよ」
別の声が聞こえた。驚いてそちらを見ると、羽鳥さんの後ろに、上半身裸でジーンズを履いた若い男が立っていた。不機嫌そうに頭をかきながら、俺の顔をじろじろ見ている。
「あんた誰?」
ぶしつけに問われて困惑していると、羽鳥さんが厳しい顔で言った。
「出てくるなって言っただろう」
「なに、俺に見せたくない相手?」
「会社の後輩だ」
「へー、会社でもよろしくやってんの」
「彼はそんなんじゃない」
「ふうん。ただの後輩が、一日休んだからって、見舞いに来るってのも珍しいけど」
「勘ぐるな」
最初、弟さんか何かかと思った。でも、それにしてはずいぶん雰囲気が険悪だ。会話の意図もよく飲みこめず、俺はただ二人を見つめるばかりだった。
 しばらくの沈黙の後、そいつは羽鳥さんの背後まで来て、肩を両手でつかんだ。そして肩越しに俺を一瞥すると、口を開いた。
「この人がなんで今日休んだか、教えてやるよ」
「、な…!」
「俺が昨日寝かせなかったから」
何か言いかけた羽鳥さんの口を手でふさぎ、にやりと笑う。
「最近冷たいから、お仕置きしとこうと思ってさ」
男の台詞は、俺の理解の範疇を超えていた。『寝かせなかった』?『お仕置き』?
 男はそんな俺にかまわず、にやにやしながら続けた。
「はじめは嫌がってたくせに、最後には自分から腰振ってよがってたぜ」
「やめろ…」
ふさいだ手の間から、うめくような声が響く。俺の中では、ある一つの結論が出されようとしていた。
 そんな、まさか。
「はは、信じらんねーって顔してる。外ヅラいいもんな、あんた」
「やめ…」
嫌がる肩を抱きこみ、意地悪く耳元にささやく男の前で、俺は呆然と立ち尽くしていた。
 羽鳥さんが、男と。この男と、肉体関係をもっている。
 男はさらに続けた。
「想像つかないだろうけど、この人、やってる時はすっげぇイヤらしいんだ」
その頃俺は、予想もしなかった事態にすっかり現実感覚がなくなってしまっていた。男が何を言おうが右から左、ただの音にしか聞こえていなかった。
 しかし。
 次の台詞に、俺は頭を思いきり殴られ、一気に現実へと引き戻された。
「あの声で、泣きながら『マサシ』なんて呼ばれるとぞくぞくするね」


「マサシ…?」
「ん? ああ、俺、井上政司。よろしく」


 『南、マサシって名前なのか?』


 気がつくと、逃げるように走っていた。去り際にかすめた羽鳥さんの顔は、蒼白だった。



 週明けの月曜日。会社で会った羽鳥さんは、普段とまったく変わらなかった。
「…おはようございます」
「おはよう」
 俺は、目を合わせることができなかった。
 羽鳥さんがホモだったってことは、そりゃあもう驚いた。けど、個人の嗜好の問題だし、それで俺の羽鳥さんに対する評価がどうこうっていうのはなかった。落ちついて考えれば、恋人の名前が俺と同じマサシだったことだって、単なる偶然で別に騒ぐような話じゃない。
 問題は、俺の方にあった。

 あの晩、ほとんど眠れなかった。
 うとうとしかけると、妄想だか夢だかわからない映像が脳裏をよぎる。
 からみあう二つの雄。
 冷たい表情がとろけて、快感にあえいでいる姿。
 井上とかいう男の台詞が、断片的に思い出される。
 どんな風に感じるだの。
 どんな風に乱れるだの。
 体の一部がざわめいているのを、必死で無視しようとした。
 何度も寝返りを打つ。
 駄目だ。こんなの駄目だ。
 でも、目蓋の奥には、男に穿たれ、歓喜の涙を流して名前を呼ぶ、顔。
 彼を泣かせているのは、あの男ではなく、俺だった。

 意志とは関係なく、昂ぶっていく体。罪悪感は、劣情をさらに煽るだけ。
 俺は結局、自分で自分を解放して───そして、激しい自己嫌悪に陥った。


「南、羽鳥となんかあったのか?」
「…いいえ」
「そうか? ならいいんだが…」
 課長は心配してるみたいだけど、こんな話、できるわけがない。いくら彼女と別れたばかりだからって、いくら相手がホモだったからって、男を、しかも尊敬する先輩を毎晩のように夢にみて、欲情してしまうなんて。
 自分でもおかしいと思う。今まで、自分のことをホモだと思ったことなんてないし、男を好きになったこともない。
 でも、羽鳥さんを見ると、囚われてしまうのだ。
 あの顔が、切なげにゆがんで。
 あの唇から、俺の名前が甘くつむぎだされる妄想に。


 こうして、ぎくしゃくした状態のまま時は過ぎ、正式な配属先が決まった。
 俺は別の課に行くことになった。