時間外指導 (5)


 あちこちで笑い声が起こる。説教が始まる。出来上がった奴が踊る。宴もたけなわ、である。
 今日は新人配属決定の飲み会だった。部全体なのでけっこうな人数だ。そのまま同じ課に配属されたのもいれば、俺みたいに別部署に行くやつもいる。俺は課長に連れられて、調査課の方に挨拶に行った。
「よろしくお願いします」
「ああ、よろしく頼むよ」
調査課の課長はにこやかで、人当たりのいい人物だった。よさそうな上司にほっとしながらも、複雑な気持ちだった。
 調査課はもともと俺の希望部署だったけど、考えてみれば会社組織や仕事の内容なんか何も知らないうちにもっていた希望なんて曖昧なものだ。今は、情報管理の仕事もやりがいがあると思える。それなのに異動するのは、残念というか、もったいない気分だった。
 でも、これでよかったのかもしれない。「あれ」に悩まされることがなくなるのなら。
 場が盛り上がり、皆が席をくるくると移動していても、羽鳥さんの位置だけは頭に入っている。目が勝手に追ってしまうのだ。
 今日話せたのは、会社で、皆が会場に移動しようとざわついていた時だけ。自分を奮い立たせて、声をかけたのに。
「羽鳥さん」
振り向かれた途端、目線が落ちてしまった。
「いろいろ、お世話になりました」
「ああ。調査に行っても頑張れよ」
「はい。ありがとうございました」
あんなにお世話になったのに、目も合わせられず、こんな判で押したようなお礼しか言えない自分が腹立たしい。でも駄目だった。目を見た瞬間、卑しい頭の中身をすべて見透かされるような気がして。

「えー皆さん、宴もたけなわでございますが」
部長の締めの挨拶が終わり、皆が出口へ向かって移動を始めた。
「二次会はカラオケですー」
そんな声を聞きつつ人波に飲まれようとしていた時、後ろの方で大森さんの声が聞こえた。
「羽鳥、どうした?」
振り返ってみると、羽鳥さんがまだ、壁にもたれたまま座っていた。眠ってるのかと思ったけど、目はうすく開いている。
「立てるか?」
「んー…」
眉間を指で押さえ、目をつぶった。
「気分悪いのか?」
「いや、大丈夫…」
支えられて立ち上がったものの、ふらついている。かなり酔っている風だ。
「珍しいな、お前がこんななるなんて」
「あの、」
考えるより先に声が出ていた。
「何だ?」
「俺、送っていきましょうか」
大森さんの意外そうな顔が返ってきた。
「南が?」
「はい、同じ方向ですから」
「うーん、でもお前、一応今日の主役の一人だしなあ」
渋る大森さんに、小声で
「俺、実は歌ヘタなんです」
とささやくと、ものすごーく納得のいった顔をされた。
「そうか…。じゃ、頼もうか」
羽鳥さんは一瞬、戸惑ったようだったけど、何も言わなかった。
「歩けますか?」
「うん…」
肩を貸し、一歩踏み出したところで、大森さんから声がかかる。
「南」
「はい?」
「この次は歌えよ」
苦笑いしながら頭を下げ、羽鳥さんを抱えた俺は戦線を離脱した。


 失敗だったかなあ。
 送っていく間中、頭の中に浮かんでは消えるこの台詞。だって、ダウンした羽鳥さんを送るってことは、しじゅう支えてなくちゃならないってことで。
 細身だけどけっこうしっかりした体つきとか。
 酔って赤らんだ頬の皮膚の薄さとか。
 ちょっと乱れたしなやかそうな髪とか。
 ゆるめた襟元からのぞく首筋とか。
そういった刺激が、毎晩の不毛な妄想をよみがえらせて、俺は一人悶々と苦しんでいた。
 本当は、まあ上手いとは言いがたいけどそこそこ歌えるし、カラオケも嫌いじゃない。でも、あそこで羽鳥さんと別れてしまってはいけないような気がしたんだ。だけど、じゃあどうしたいのかと言われたら、正直言って自分でもわからなかった。
「羽鳥さん、鍵どこですか」
「これ…」
 部屋にたどり着いたら着いたで、あの時のことを思い出す。なるべく考えないようにと思いながら、渡された鍵でドアを開けた。不意に、
「いないよ」
頭の横で、ぽつりと羽鳥さんが言った。俺は、自分が無意識に部屋の奥の方を確かめていたことに気がついた。
「あいつとは別れた」
俺は何と言っていいかわからず、「そうですか」とだけ答えた。

 部屋に入ると、気が抜けたのか羽鳥さんはキッチンの床に座り込んでしまった。冷蔵庫を開け、手近なコップにミネラルウォーターを注ぐ。
「羽鳥さん、水です」
「ああ、悪い…」
羽鳥さんはコップを受け取ると、ゆっくりと飲んだ。飲む度に喉仏が動くのがなぜかひどく印象的で、飲み終えてコップが口から外されても、俺の視線はそこに釘づけになっていた。
 ふと、あちらからも見つめられているのに気づいて、あわてて目をそらした。何を見とれていたんだ。
 羽鳥さんは眼鏡越しに、じっと俺を見ている。俺は目をそらしたまま、だんだん、鼓動が早くなっていくのを感じていた。相当酔っているのだろうか? それとも───

「つらいんだろう?」

心臓が跳ね上がった。
「……どうしてですか?」
平静を装ったけど、声が上ずっているのが自分でもわかった。そんな台詞、俺の方が言われるはずはないのに。

「無理するな。お前、すぐ顔に出るんだから」

 声も出なかった。
 全部、ばれてたんだ。
 俺が、よこしまで浅ましい、最低な人間だってこと。
 ああ、
 穴があったら入りたい───


「一生懸命、普通に接しようとしてくれてるお前を見ると胸が痛かった」

 ………え?

驚いて顔を上げた。羽鳥さんはひどく沈痛な表情を浮かべていた。
「責めるつもりはない。自業自得だ」

 え? え?

「慕ってくれてたのに、失望させてすまなかった」


 ……俺は。
 俺は、社会人とは名ばかりのヒヨッコで。
 いつもいつも、自分のことしか考えてなくて。
 その時初めて、本当に初めて気がついたんだ。
 あんなことがあった後、まともに口をきかなくなったら。あからさまに目を合わせなくなったら。
 避けられた方が、その理由をどう考えるかってことに。

 ───俺の馬鹿野郎!

「そんな、そんなんじゃないんです、俺っ……!」
夢中で否定した。
「俺…俺、あの日から羽鳥さんの夢ばっかみるようになって、…夢の中で……あの……は、羽鳥さんと………」
そこまでしか言えなかった。頭に血がのぼって、喉がからからに渇いて、全身から汗が噴き出して。
「なんてこと考えてるんだって、後ろめたくて、恥ずかしくて、だから」
軽蔑されたかもしれない。でもいい。その方がよっぽどましだ。
「悪くないんです、羽鳥さんは悪くないんです、悪いのは、わるいのは……」
ギュッと目をつぶって、頭を下げた。
「ごめんなさい」



「……俺は昔から、人の面倒をみるのが苦手だった」
淡々とした声が聞こえた。
「課長から後輩の指導を任された時、仕事だからしょうがないと思ったけど、本当は嫌だった」
顔を上げた。羽鳥さんは俺の方を見ていなかった。

 最初は、頼りないやつだなと思った。
 初めてなんだからわからないのが当たり前なのに、一人で悩んで、考え込んで。
 俺の態度が話しかけにくくさせてるってのはわかってた。でも俺は臆病者で、自分じゃどうすることもできなかった。
 そんな時、あの失敗があって。
 新人にはけっこう厳しい作業だったから、うんざりしただろうと思ってたのに、うれしそうに御礼を言われて。なんでそんなこと言われるのかわからなくて、戸惑ったけど。
 なんだか、うれしかった。
 そのうち、お前が打ち解けてくれて。いろいろ接してるうちに、すごくいいやつだってことがわかってきた。
 頑張り屋で、素直で。ちょっと、抜けてるけどな。
 こんなふうに、誰かの面倒をみるのが楽しいと思えたのは、初めてだった。

 あの日、何かあったなと思った。
 お前、すぐ顔に出るから。
 それが、やたらに気になって……、柄にもなく、飲みに誘った。
 彼女と別れたって聞いて、なるほどと思った。そりゃつらかっただろうって。
 でも。
 同時に、俺は、ほっとした。
 なぜなのか、その時はよくわからなかった。
 家に帰ったら、井上がいて。
 言われたんだ。

『あんたさあ。他に、男がいるだろ』

 その時。
 やっと自覚した。俺は、お前を、
 好きなんだって。

 でも、お前はゲイじゃないし。
 何より、俺のことを先輩として純粋に慕ってくれてるお前にこんなこと言えるわけないと思った。
 忘れるつもりだった。
 だったのに、あいつ……お前と同じ名前なんだよな。


 しばらくの沈黙の後、独白は続いた。
「あの後…、お前が調査の方に行くって聞いて、いい機会だと思った。先輩面なんかもうできない。きっとお前も、俺のこと、最低な奴だと───
 もう、聞いていられなかった。
 俺は、羽鳥さんを抱きしめた。
「…どうした?」
かすかに動揺した、声。
「同情なんかしなくていいんだぞ」
抱きついたまま、肩口にうずめた首を振った。


「南」
「はい」
「俺のことが好きか?」
「…はい」
「それは、俺がお前を想ってるのと同じように好きってことか?」
俺は、思考能力を総動員して、考えに考えた。これ以上頭を使ったことがないってくらい考えた。
 でも。


「わかりません」


 泣きそうな声だったと思う。
 羽鳥さんは、苦笑まじりの吐息をもらした。
「正直だな」
肩にかかっていた力が、ふっとゆるんだ。つられるように腕の力を抜くと、羽鳥さんはゆっくり、眼鏡を外した。直に視線がぶつかる。酔いでうるんだ長いまつげと、瞳。
 俺は馬鹿みたいに固まったまま、羽鳥さんの唇を受けた。最初は軽くおしつけられて、次に少し強く。
 キス、されてる───
 たぶん、そんな長い間じゃなかった。だけど俺はすっかり舞い上がってしまって、唇が離れても、頭の芯はボウッとかすんだままだった。

「おいで」
その言葉で正気に返った。立ち上がった羽鳥さんが、肩越しにこちらを見ている。その向かう方向には───さっきから俺が見ないように努力していた───ベッドがあった。
「いいんですか?」
信じられない思いで聞いた。
「……『はい』って答えられてもする気はなかったんだけどな」
羽鳥さんは薄く笑って目線を外し、つぶやいた。
「お前が嘘をつかなかったから」