鬼達の霍乱 (1)


 昨日と同じ香りのする身体を抱きしめながら、由井は葛藤していた。
 どうしよう。キッシュ焼きたてなのに。いま食べた方が絶対うまいのに。超腹減ってるのに。
 嗅覚は五感の中でいちばん記憶と結びついているという。彼の鼻先にある白い首筋や、乾ききっていない淡い栗色の髪が含んでいる柑橘系の香りが、その爽やかさとは真逆の昨夜のあれやこれやを否が応にも呼び覚ます。
 由井が次の行動を決めあぐねていると、両肩に手が添えられた。
「ちょっと、離してくれるか?」
 ……そうだ、ルカさんだって空腹のはずだ。夜あれだけやったのにまた朝からなんて、俺、サカりすぎ。
 反省し、拘束をゆるめた由井は、腕の中から去っていく体温への未練を断ち切るため、笑顔を作り、努めて明るく口を開いた。
「飯、食お……んぐっ」
 噛みつく音のしそうなキスだった。
 その勢いのまま入ってきた舌に対応しきれず、いいように蹂躙されてしまう。
――――っ!」
 獲物が気を取り直す前に、捕食者はさっさと顔を離した。その濡れた唇を、奥から出てきた舌が舐めとる。由井の耳には「ごちそうさま」という幻聴が聞こえた。
 そうだった、この人男だった。だいたい、同じ高さに顔があるし。腕も長いし。骨ばってるし。力強いし。――当たってたし。
 長い睫毛のまばたき。精巧な人形みたいに整った端正な顔にはしかし、人形にはありえない情欲が載っている。
 ……くっそ、超エロかっこいい。なんか腹立つ。
「我慢しようと思ったのに」
「我慢がきかなくて悪い」
 笑みをにじませながらそんなことを言う。ああもう、余裕あんな畜生。
「あ、」
 すっかりふてくされた由井は、鳴神の弱点である耳たぶを右手でそっとつまんだ。びくりとすくむ身体。
「ルカさん、耳弱いんだね」
「……知らなかった」
 視線をはずしてつぶやく目元はすこし赤らんでいる。
「、新」
 親指で耳の輪郭をなぞると、何かを堪えるように鳴神の眉間にしわが寄った。その綺麗な瞳に軽く睨まれた瞬間、由井は、自分の中にかすかな悦びが生まれるのを感じた。
「……俺Mっ気あるのか?」
「? 逆だろ? ……ん、」
 唇を塞ぐ。さっきのお返しである。
 耳をなぞるのと同調させるように、舌で口の中もなぞっていく。
「ふ……っ!」
 腰を押しつけるように密着させた由井は、左手で服の上から鳴神の尻をつかんだ。きゅっと小さく締まった手ごたえが返ってくる。

 女性のふくよかさ、やわらかさとは縁遠いけれど。
 俺は、この人が、欲しい。

「今日は、酔ってないけど」
 唇を解放し、とろりとしてきた目を見つめる。布地越しに弾力をもてあそびながら、おうかがいを立てた。
「また、してもいい?」
 鳴神はさらに頬を染め、小さくうなずいた。すこし開いたままの口元もとてもセクシーだが、それでも、初対面の時のあの顔の方が凄かったなと由井は思う。彼が惚れ込み生涯の仕事に選んだ対象は、愛する人にとんでもない影響を及ぼす代物だった。
 許可はくれたけれど、昨日が初めてだったはずの身体。また、あれの助力が必要だろうか。
「チョコレート、まだ残ってるよ」
 鳴神はちょっと考えてから、
「必要ない。今は」
 と、きっぱり言った。
「酔ったはずみで受け入れたわけじゃないことを、ちゃんと証明しておきたいから」
 ……やばい惚れる。惚れ直す。
 由井は愛おしすぎる恋人をまたぎゅっと抱きしめて、ともにベッドに逆戻りした。


「ちょっと、待てって!」
「いでっ!」
 抗議の声を無視し、鳴神を押し倒して部屋着の裾をたくし上げてあちこち撫でまわしてキスしまくっていた由井は、わりと容赦のないデコピンをくらって動きを止めた。
「当店の対応に何か問題がございましたか?」
 涙目になっている由井の台詞にすこし頬をゆるめた鳴神は、組み敷かれていた状態から抜け出し、半身を起こした。
「いや、すまない。でも、」
 赤くなってしまった額に、すらりと長い指が触れる。
「昨日と違って今日は素面だから、一方的にされるばかりなのはどうも、落ち着かないんだ」
 指は自身のつけた打撃痕を優しく撫でた後、滑るように下方へ移動し、顎をそっとすくい上げた。
「情熱的に求められるのはすごく嬉しいんだが、俺にも楽しみをくれ」
 触れるだけのやわらかいキスをひとつ。
「〜〜〜〜!」
 普段の顔ですら見惚れてしまうような極上の美形が、超至近距離から本気モードで惜しみなく繰り出す飴と鞭のコンボ。こんな激レアな妙技への免疫など持ち合わせていなかった由井は完全に打ち負かされてしまい、言葉にならない声を上げて悶えた後、自分よりいくらか細い肩の上に真っ赤になった顔をうずめ、脱力した。
「ん、情熱的?」
 敗者の頭をよしよしと撫でながら、記憶のひっかかりを探る鳴神。
 なんだっけ? passionné……ああ。
「本当だ」
「……何?」
 まだ赤みの取れない顔で尋ねた由井は、
「お前みたいな男はベッドでは情熱的だって。彼が言っていた、シリル・リシェール」
「えええ!? なんだよそれ!」
 その返答に思わず大声を上げ、がばと跳ね起きた。
「俺あの人と寝たことなんかないから!」
 あまりの剣幕にさすがの鳴神も驚き、言葉を継ぐ。
「いや、お前じゃなくて『お前みたいな男』だから。彼の持論だろう」
「持論だかなんだか知らないけど、なんであの人ルカさんにそんな話してんだよ」
 目に見えて不機嫌になった由井に、あのディナーの席でのトークの内容を伝えると、
「……信じらんねー」
 彼は心底うんざりした様子で嘆息した。
「相当苦手みたいだな」
――大事なお得意様だし、なんとか慣れようと思って頑張ったんだけど。駄目だった」
 苦手なものでも、まずは受け入れようと努力するところがいかにもこの男らしい。
 むくれている由井とは裏腹に、鳴神はほほえましく思った。
「俺は、彼の話を聞きながら殺気立ってたらしい」
「へ、殺気?」
 不穏な言葉に意表を衝かれ、機嫌の悪さを忘れた由井の目に、やわらかい表情で近づいてくる美貌が映った。
「あの頃にはもう、好きだったんだなあ」
 いかにも大事そうに胸に抱き込まれて、由井の心は熱いもので満たされた。
 好きになった相手も自分のことを好きでいてくれたなんて、本当に、なんという幸運だろう。
 ちょっとばかり回り道はあったけれども、まあ、結果オーライ。

 額に落とされた口づけは鼻筋の上を通り、唇の凹凸を辿っていく。あごのラインをゆっくりとさかのぼって耳、首筋と降りていく頭からふわりと漂い、由井の鼻をくすぐるのは、あの匂い。先ほど釘を刺された手前できるだけ我慢しようと思ってはいるものの、この状態で果たしてどこまで自制心を保てるのかと不安を覚える忠犬である。
 互いに服を脱がせ合い、上半身をさらす。鳴神はまるで輪郭でも確かめるかのように、由井の身体に指を滑らせていった。盛り上がった肩、厚みのある胸板、硬い腹筋、締まった脇腹。
「新、いい身体してるよな」
「そうだね、けっこう肉体労働だから……うわ、」
 乳首をつままれ、思わず上がった声に
「色気がない」
 苦笑いが返る。
「だって、俺が色っぽくても気色悪いでしょ」
 茶化すように言うと、鳴神は真面目な表情でしばし考え、
Pas de problème問題ないな. 俺はうれしい」
「ひゃっ」
 ごく自然な動作で、右側の乳首に吸いついた。
「ちょ、ルカさ……っあ!」
 口に含まれたまま舌で舐め上げられ、思わず背筋が跳ねる。あわてて口を覆った由井に、
「今のは可愛い」
 ものすごく意地悪そうな顔がにやりと笑いかけて、今度は心拍を跳ね上げさせた。息をのんだまま動けずにいると、
「いっ、」
 今度は左側を吸われた。
「っく、あ…ふ、……う、」
 濡れた舌先でひどく優しく、丁寧に施される愛撫は由井にとって未知の感覚であり、それはかえって強い刺激よりも耐え難く、彼の体と心を苛んだ。
「う…ぐ、……う、うあぁ、ダメだ! も、まって、待って! 勘弁して!」
 翻弄される状態に耐え切れず、ついにギブアップを宣言してしまった由井。鳴神が顔を離して尋ねる。
「そんなに駄目か?」
「なんか、やばい扉が開きそうな気がする」
 泣きの入った哀れな声ではあったが。
「俺の扉はこじ開けたくせに」
 うっ。
「……ごめんなさい」
 いつものクールな顔に自分の行為の棚上げを糾弾されてしまった忠犬は、何も言い訳できず素直に謝った。しおれた耳や尻尾が目に見えるようで、鳴神は小さく笑った。