The Only Exception (20)


 目覚めたら、一人だった。

 ――まさか、昨日の出来事は全部、夢?

 眠気も吹っ飛び、がばと身を起こした鳴神だったが、その時点でひどく重い腰に気づいた。身体もあちこち痛い。そして、全身に散るキスマーク。
 夢……ではないようだ。
 ふと、ドアに黄色い付箋が貼られているのに気づいた。文字通り重い腰を上げ、よろよろと近づく。
『腹が減ったのでメシ作ってきます。勝手にキー借りましたごめんなさい』
 そういえば夢うつつの中、「仕事は」と尋ねる由井の声に休みだと答えたような気がする。
 幸い、懸念していた二日酔いや記憶の欠落は起こしていないようだった。ちょっとばかり激しかったあの行為以外に起因する体調不良は感じられない。
「よかった……」
 昨晩の思い出を反芻して赤面しつつドアの前に立っていたら、人様には言えない部分から何か流れ出してくる感触に気づき、あわててバスルームに飛び込んだ。

 シャワーを浴びて出てくると、ちょうど由井が戻ってきたところだった。
「あ、ルカさん起きてた」
 彼も自分の部屋で風呂を済ませてきたようだ。さっぱりした顔に笑みを浮かべ、左手を掲げる。
「キッシュ焼いてきたよ」
 その手にはめられた耐熱のオーブンミトンは、まだ湯気を立てているキッシュ・ロレーヌを型ごと掴んでいた。同じマンションに恋人がいるというのはいいものだ。
「ほんとは、ものすごく離れがたかったんだけど、ものすごく腹も減っちゃって。ルカさん、これ気に入ってたみたいだから」
「……お袋の味、なんだ」
 鳴神は、切ない笑みを浮かべた。皿を出していた由井の手が止まる。
「そうなんだ。おばあちゃん直伝だったんだね」
「そうだけど、ちょっと違う」
 遠い目。
「母はとても柔軟な人だったよ。父と結婚して、一人遠い異国の地に来て、日本のベーコンだけは嫌だって言いながらキッシュ・ロレーヌを焼いていた。でも顔は笑っていて、全然嫌そうじゃなかった」
「……」
 由井は、準備中の諸々から離れて鳴神のそばに寄り、彼をそっと抱きしめて、「ルカさん」と呼びかけた。
「俺が『ルカさん』って呼んでもいいかって聞いた時のこと、覚えてる?」
――ああ」
 母が亡くなっていたことを告げた、あの時。
「今、わかったよ」
 腕に、力がこもる。
「俺、あの時、あなたを抱きしめたかったんだ」
 鳴神は、由井の肩に頭を預け、目を閉じた。

 しばらくの後、由井がまた鳴神の名を呼んだ。
「俺、謝らないといけないことがあります」
 改まった口調でそう言って、体を離す。
「俺とルカさんが初めて会った日、あの、ルカさんがうちの店で買い物した日の何日か後、俺、道であなたに声をかけたでしょう」
「ああ。ちょうど、昼を買って店から出てきた時だったな」
 そこで鳴神がリリスに誘われたことから、二人のプライベートな交流が始まったのだ。
「あれ、偶然じゃなかったんです」
 由井は、あの日研美本社ビルの前に張り込んで、出てきた彼の後をつけ、偶然を装って話しかけたことを告白した。
「どうしてあなたがあんな顔で買い物に来たのかすごく気になってて、話を聞きたかったんです。でもやっぱり、褒められた行為じゃない。ストーカーみたいな真似をしてしまって、本当にすみませんでした。ごめんなさい」
 鳴神はこの告白に多少驚いたものの、黙っていればなんら問題にならない事柄を、黙っていられず真剣な表情で謝る男に、心の底から愛しさを感じた。
「本来なら嫌悪されるべき行為かもしれないけど、俺は気にしない。俺もその時からずっとこの体質をごまかしていたわけだし、お互い様だろう。それに」
 美しい顔は、照れたようにちょっと視線を外した。
「その件に関しては、むしろ感謝する。新があの時そうしなかったら、俺は新とこんな関係になっていなかっただろうから」
「ルカさん……!」
 由井は、先ほどとは別の意味で鳴神を抱きしめた。
 そして。

 さらに関係を深め合ってしまった二人は、すっかり冷めたキッシュを電子レンジで温めなおし、仲良く食べたのだった。



「オハヨーゴザイマ……」
「おはようジェレミー! 今日の昼なんでもおごるから!」
 次回出勤時に殴られる予定は本人の知らない間に変更されていた。
「えー、それならナルト屋セットがいいけど、なんで?」
 とりあえず希望を主張しておいてからの疑問に、由井が満面の笑顔で答える。
「恋人だと思ってたら誤解だったんだ! しかも両想いだった! ありがとう、お前のおかげだ!」
「マジでー!? やったじゃないかアラタ、おめでとう! ほら、僕の言った通り、ちゃんと告白してよかっただろ?」
 いろいろ言葉足らずな由井の説明をほどよく取り違えたルブランは、下剤云々の件はきれいさっぱりなかったことにして、彼の恋の成就を一緒になって喜んだ。
「あれ、じゃあ頼まれたチョコレートはアラタにあげるつもりだったってこと? それも変だよね」
「あれは……まあ、いろいろあって。結局、もう一人の恩人にあげてもらうことにした」
 彼女には、本当に、ほんっとーにお世話になったから。


「おはようございます」
「はい、おはよう。フラグ成就おめでとう」
「フラグ?」
 出勤早々、村田にまた謎の言葉をかけられ、顔に疑問符を浮かべながらも歩を進める鳴神。
「鳴神さん、すっかり顔色よくなりましたね」
「はい、おかげさまで。ご心配をおかけしてすみませんでした」
 礼を述べつつ佐藤の横を通りすぎ、伊藤と雑談している目当ての人物に声をかける。
「守口」
「はい? 何かしら、遥さん」
 出勤早々鳴神が守口に話しかけるなどという珍しい出来事に室内の視線が集まる中、彼は鞄からある物を取り出した。
「あ、ビジューのバレンタインボックス!」
 伊藤が声を上げる。
「これをお前に渡してほしいと、知り合いに頼まれた」
「えー、逆チョコですか? しかも二日遅れ?」
 興味津々の伊藤の横で怪訝な顔をする守口に、鳴神は続けた。
「いや、そういう意味じゃない。お前にいろいろと世話になったので礼をしたいんだそうだ」
「……まったく身に覚えがないんだけど」
――まあ、そこはあまり気にしないでくれ」
 歯切れの悪い鳴神というのも珍しく、周囲の注目はいやでも高まる。
「それで、これは俺にもよくわからないんだが……ええと」
 鳴神はファンシーな赤い箱を片手にしばし、何かを思い出すような目をした。
 その直後。
 秘書室内にいた人間は皆息をのんで静まり返り、チョコレートを手渡された守口の顔がかあっ、と赤く染まった。
 続いて、女子の黄色い悲鳴。


『これを姑さんに渡す時は、俺からチョコレートをもらった時の気持ちを思い出して、その時の顔をしてくださいね』


 由井のお礼と復讐は、みごと彼の目論見通りに運んだようだった。


−終−