Reversi Blanc (1)


「昼食に行ってきます」
「あ、鳴神」
 パソコンのモニターに注いでいた視線を上げた村田は、部屋を出て行こうとする長身を呼び止めた。
「今年はホワイトデーどうするか決めた?」
 足を止めた有能な部下は、いつも通りの中身の読めない表情で答えた。
「ちょっと候補の店がありますので、そちらに頼むかどうか決めたらまた報告します」
「あ、そう、了解。行ってらっしゃい」
 ひらひらと手を振りながら、隙なく美しい後ろ姿が去っていくのを興味深く見送る。


 バレンタインデー当日までの鳴神の不調と突然の復調、翌日の代休、そして翌々日である今日の朝に研美本社の秘書室で起こったささやかな事件。この一連の出来事について、詮索好きな人々の手によって固まりつつある非公式見解はだいたい次のようなものであった。

・鳴神に新しく彼女ができた
・守口の不在による激務でデートの時間が取れず、彼女を怒らせてしまって落ち込んでいた
・バレンタインデーの日に彼女と仲直りでき、急遽翌日に代休を取った
・彼女は鳴神がアレルギーだと知らず、チョコレートを準備していた

 そのチョコレートが守口に渡ることになった理由については、「鳴神と近しい守口への牽制」という説がスタンダードだが、「鳴神を仕事漬けにさせたことへの復讐」という説も有力視されている。もちろん守口の事故は不可抗力であり、意図的に休んだわけではないけれども、普段の彼らの関係性を知っている人間であればあるほど、たまには意趣返しもやむなしだろうと笑うところだった。それに、笑顔で高級チョコレートをプレゼントするという行為には別にマイナス要素はなく、これで「してやられた」と悔しがるような人間は守口だけだという点から、実にスマートで秀逸な復讐法だと評価されていた。提案者が鳴神なのか彼女なのかという点については皆の意見が分かれるところである。

「うーん」
 ここに、その見解とは少しばかり意を異にしている者がいた。当事者たちの上司であり、復讐劇(笑)の舞台となった秘書室を束ねる室長・村田である。彼は鳴神を新人の頃から育て上げ、鳴神の性格を社内でいちばん理解している人間だ。
 鳴神に恋人ができたであろうことは村田も確信を持っており、チョコレートの出所についてもその恋人で間違いないとみている。村田の意見が皆と異なるのは、その恋人の人物像だ。
「女性なら、言ったと思うんだよねえ」
 彼の有能な部下はもともとあまり隙のない性格をしているのだが、大企業の社長秘書としてみっちり教育されてきた上、ストーカー騒ぎなどもあって、ますますその面が強化されている。先手先手を打って誤解や不利になる状況を避けることに長けたその鳴神が、件のチョコレートについて「女から」の贈り物だと言わなかった。あの場で伊藤に「逆チョコですか?」と問われ、それを否定したにもかかわらず。
 だが、それだけなら、仕事に関する話ではないからそこまで気を配っていなかったという可能性もある。しかし村田のもとには、だいぶ前になるがもう一つ情報が入っていた。鳴神がリリスに、プライベートで誰かと食事をしに来たというものだ。
 一応これは顧客の個人情報に関わる内容であるから、いくら鳴神が村田の部下で、リリスのオーナー・加々美が村田の友人だからといっても、一緒に飲みに行った先で加々美が軽々しく漏らしたわけではない。くっついてきたデュシャンが聞いてもいないのにべらべらしゃべっただけである。まあデュシャンはあまり日本語がうまくない上に好き勝手に話すばかりなので、わかったのはその誰かがアラタという名前だということくらいで、後は加々美がしぶしぶ、アラタとやらがデュシャンに憧れるチョコレート職人であり、デュシャンに会うために来訪したらしいと教えてくれた。その憧れの君は初めて口にした芋焼酎をうまいうまいとがぶ飲みしてへべれけになり、加々美におんぶされて帰っていったけれども。
 さて。チョコレートアレルギーの男とチョコレート職人という取り合わせだけでも興味深い話だったが、そのとき村田が思い出したのは、秋頃職場の近くにオープンしたとあるチョコレートショップのことだった。ビジュー・トウキョウという名のその店を会長がことのほか気に入っているという話は耳に入っていた。おそらく鳴神も買いに行かされたことがあるだろう。そして、ちょうど彼らがリリスを訪れたと思しき時期に、「贈答品を購入したお店の方」にナンパされる鳴神が目撃されている。
 さらには、今日鳴神が守口に持ってきたのも、そのビジューとやらのチョコレート。
「ふーん」
 村田はまたしばらくモニターに目を落としていたが、目当ての人物が部屋に入ってきたことに気づき、声をかけた。
「佐藤ちゃん、ちょっと来て」
「はい」
「この人見覚えある?」
 彼が見ていたのはビジュー・トウキョウのWebサイトであり、そこにはシェフショコラティエである由井”アラタ”氏のプロフィールと挨拶文が、コックコート姿の写真とともに掲載されていた。
「まあ、素敵なイケメンさんですね。……あら、もしかしてこの方」
 ナンパ現場の目撃者である佐藤の特徴記憶能力は、長年受付を担当しているだけあって信頼に足るものである。相手がイケメンならなおさら。
 佐藤はページに目を通しながら、村田と言葉を交わした。
「あのお店の方だったんですか。あらすごい、『老舗の看板を背負うことを許された気鋭の日本人ショコラティエ』ですって。スーツもお似合いでしたけど、こちらの方がもっと格好いいですね」
「うん、男前だよねえ」
「……」
 佐藤は鈍い方ではない。むしろ、細かいところまで気が回る。
「もしかして、もしかするんですか」
「さあねえ。でも、ホワイトデーのもそうだったら、ガチじゃないかな」
「ガチ、ですか。まあ、鳴神さんならそれほど驚きませんけど」
 中身はわりと地味で堅実な男だが、何しろあの見た目である。男とつきあっていても不思議ではないと思わせるだけの説得力があった。
「でも別に、この方本人じゃなくても、たとえばこの方を介して知り合った、なんて線もあるんじゃないですか?」
「うーん。でもこの人、鳴神の好みっぽい気がするんだよね」
「好み?」
「本場の老舗に認められるくらいの人でしょ? すごい努力家だと思うんだ。この経歴とか挨拶の文からもそんな感じがするし。彼、こういう真面目に一生懸命働く人、大好きだからねえ」
 だから、どんなに姑でも守口にはそれなりに親切な対応をするし、どんなに世間の評価が高くてもデュシャンのことは軽くあしらうのだ、と村田は分析している。本人がそれを自覚しているのかどうかは知らないが。
「なるほど」
 納得する佐藤。ちなみに、旧知の仲である研美社長・香月は、村田のことを「探偵部長」とか「情報局長」などと呼ぶことがある。



 それからしばらく経った、ある金曜日の夜。メールで連絡をもらった鳴神は、仕事帰りにそのまま由井の部屋へと直行した。スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら口を開く。
「試作、できたって?」
「はい。これです」
 仕事の匂いを落とし、くつろいだ格好で待っていた由井は、キッチンのテーブルに置いてあった箱の蓋をいそいそと取った。


 二人の想いが通じ合った翌日のことである。
「あ、ごめん」
 コーヒーカップを片付けていた由井は、リビングの隅に積もっていたバレンタインプレゼントにうっかり足をひっかけ、山を崩してしまった。ソファに沈んでいた鳴神はそれを見て「忘れてた」とつぶやき、朝よりさらに重くなっている腰を上げた。
「それ、テーブルのそばに寄せておいてくれるか」
 一旦消えて戻ってきた彼の手には、薄型のノートパソコンがあった。ソファからクッションを取って床に置き、由井が移動させたプレゼントの横に腰を下ろす。手慣れた様子でノートを操作して、目当てのファイルを開いた。
「リスト?」
 興味津々で画面を覗き込んだ由井は、プレゼントを仕分けしながら鳴神が語る内容に、
「……なにそれ」
 とつぶやき、しばし絶句した。
 研美本社名物、「鳴神のホワイトデー行脚」。バレンタインプレゼントのお返しを配る鳴神が、ビルの最上階からひとつひとつの部署を順にめぐりながら降りていく行為を表す言葉である。毎年3月14日には、秘書の仕事よりもそちらを優先したスケジュールが組まれるという。
 気を取り直した由井が「あの」と口を開いた。
「俺、会社勤めってしたことないから、ちょっとわかんないんだけど。そういうのって、普通にあることなんですか?」
 鳴神は特に気負った様子もなく、作業を続けながら答えた。
「うちの会社では俺だけだな。他社のことはわからないが、他で聞いたことはない」
「ですよねー」
 とりあえず、おかしいと思った自分はおかしくないらしい。次に由井は、商売人らしいところを口にした。
「そのお返しって、全額自腹なんですか?」
 たしか研美の本社は十階建てのビルである。それを上から下までとなれば、安い菓子折りでも相当な額になるはずだ。そう思い発した問いに対する回答は、予想の斜め上を行った。
「いや、対象人数が本社社員の過半数に達しているし、社員の勤労意欲向上にも役立っているとみなされているから、部分的に経費で落とせるんだが」
「きんろういよくこうじょう」
 なんかちょっと次元が違うぞおい。
「どこまで経費として認められるかを判断するのに、リストを作成する必要があるんだ。どこにどれだけ品物を配るのかも把握しないといけないし」
「はあ」
 由井は再び言葉を失った。どうやら自分は、とんでもない人物を恋人にしたらしい。