Reversi Blanc (2)


 淡々とプレゼントを剥き、内容物と差出人の情報をリストに入力していく鳴神。由井も開封作業を手伝っていたが、途中ふと、
「こんな事務処理みたいな状態じゃ、プレゼントした女の子たち、ちょっとかわいそうじゃない?」
 とつぶやいた。
 由井には現在高校二年生の、年の離れた妹がいる。彼が実家に住んでいた頃は、バレンタインの時期が来るたびに菓子作りを手伝わされたものだ。その頃彼女はまだ小学生だったが、幼いなりに真剣に取り組んでいたことを思い出す。
 鳴神は作業の手を止め、由井の方に視線を向けて言った。
「俺も最初はそう思ったけど、室長に『皆わかってて楽しんでるからいいんだ』って言われたよ。女性は我々男なんぞよりずっと現実的なんだそうだ」
「……まあ、そうかもね」
 女は男に比べて大人になるのが早いのだ。今年の正月、件の妹から来た年賀メールに「バレンタインに兄ちゃんの店のチョコレート贈らないのか」と返信したら、高校生の自分がそんな高級チョコを贈ってもドン引きされるだけだからいいと返ってきた。このように、女は早くから己の立ち位置をわきまえている。
「お返しって、どんなお菓子選ぶの?」
 話題を変えた由井に、鳴神は作業を再開しながら答えた。
「小分けになってて日持ちする物。焼き菓子系が多いかな。予算の範囲内でいくつか見繕って、室長と相談して決める。毎年けっこう悩む」
「……あの」
 しばしの考慮の後。
「俺、作ってもいい?」
 鳴神の手が再び止まり、顔が傍らの恋人に向けられる。
「ていうか作る。絶対」
 決して覆せない、固い意志を持った目であった。
「作るって、ビジューはショコラトリーだろう」
「焼き菓子もあるよ」
「でもお前、バレンタインまで相当忙しくしてたし、そんなに無理しなくても」
「あのね」
 気遣いを遮り、続ける。
「俺はね、心狭いんですよ」
 九つも離れた妹より、よほど子供っぽいと思う。思うが、それでも譲れない線がある。
「恋人が、義理とはいえバレンタインにもらってきたプレゼントのお返しに、菓子職人である俺が関わらないなんてありえないの」
「……『宅の主人がお世話になっております』?」
 今の由井の心情を的確に表現した台詞だった。どう聞いても妻の方の台詞なのが少々不本意ではあるが、そう言いながら自分が菓子を配って歩きたいとすら思う。やらないけど。
「そんな感じ」
 同意を示すと、鳴神はくすりと笑った。
「可愛いな、新」
 その顔の方がよほど可愛いと、由井は衝動的にキスをしてしまった。そして案の定キスだけでは収まらず、結局リストの完成は翌日に持ち越されてしまったりもしたのだが。


 既存のラインナップには目的にふさわしいものがないと判断した気鋭のショコラティエは、いろいろと試行錯誤した。その結果が現在、テーブルの上で披露されていた。
「クッキーか」
 セロファンで個包装されたひとつを、丁寧な所作で手に取る。メダイヨン(メダル型)に成型したホワイトチョコレートと、同じ大きさの丸いクッキーが裏表に貼り合わされていた。チョコレートの真ん中にはビジューのイニシャル「B」の意匠。
「うん。もともとこれ『リバーシ』って名前で出してる商品なんだけど」
「ゲームの?」
 リバーシ。一般的にはオセロの名の方でおなじみの、白黒の石を交互に打って相手の石を挟んでいくあのボードゲームである。ちなみに「オセロ」は登録商標なので、商品名に使うのはNGだ。
「そう、それをモチーフにしたお菓子。レギュラーのはバニラサブレとビターチョコ、ココアサブレとホワイトチョコをそれぞれ組み合わせた二種類なんだけど、ホワイトデー用に両面を白くしてみたんだ」
「なるほど」
 面をひっくり返しながらしげしげと眺める横顔に、
「ルカさんは、ホワイトチョコレートは大丈夫なんですか?」
 問いが投げかけられた。
「アレルギーでも、ホワイトチョコなら大丈夫な人もいるって聞いたんだけど」
 ホワイトチョコレートは、通常のチョコレートの原料であるココアバターから褐色の成分を取り除いて作られる。ゆえに、そちら側にしか含まれていない物質が原因でアレルギーを起こしている人ならば、問題なく食べられる場合もあるのだが。
「前に一度、食べたことがある。たしかに、普通のチョコレートみたいにすぐ具合が悪くなることはなかったけど、後から来た。だから、その後は食べてない」
 象牙色の面に美しく浮き彫りになったBの文字をじっと見つめながら、独り言のように言う。
「でも、ビジューのなら大丈夫だろう。そういう、意味では」
 別の意味では、わからないけれど。
――食べてみる?」
 明日は土曜日。ショコラティエは仕事だが、社長秘書は休みである。
「……風呂、入ってからにする」
 視線を合わせないままに席を立った鳴神を見送りながら、由井は際限なくゆるみそうな表情筋を引き締め、小さくガッツポーズをした。


 コーヒーの芳香が漂う中、鳴神は袋から手間のかけられた一枚を取り出した。
 一口噛み取る。さっくりとした歯触りのサブレに、パキンと心地よく割れるホワイトチョコレートが口の中でまろやかに溶けて絡む。
――うまい」
 ゆっくりと味わい、飲み込んでから、
「このクッキー、塩が入ってる?」
 と言った。
「うん、そう。バニラサブレとホワイトチョコだと苦味がなくなって甘さが勝ちすぎるから、サブレの方に塩をきかせたんだ」
「そうか。すごく、いいな」
 シンプルながら力強い褒め言葉に、由井ははにかんだ笑顔を見せた。
「店の皆にも評判良かったんだよね、これ」
 特に女性陣には大好評で、「ホワイトデーにこれをもらえたら義理でも惚れる」と言われて非常に微妙な気分になった。
「店には出さないって言ったらがっかりされたけど」
「出さないのか?」
「うん。ビジューではショコラ・ブラン(ホワイトチョコレート)自体をそんなにたくさん製造してないからね。今から準備できる量だと、ルカさんの注文分を作ったら、店で売る分はとても残らないよ」
 詳しくは話していないし、受注予定の量が量なこともあって、店員たちはイベントか何かで提供する物だと思っているようだった。まあ、イベントといえばイベントか。経費だし。
「では、正式にご発注いただけますか?」
 姿勢を改めた由井の前で、鳴神も顔を引き締めた。
「はい。よろしく、お願いします」
 二人は真面目くさったやり取りの後、顔を見合わせて笑った。


――そんな感じで、何気ない一言からも色々見抜くから本当に油断できない。敵にしたら怖い人だとつくづく思うよ」
「へえー。さすがルカさんの上司だね」
 由井が異変に気づいたのは、雑談のさなか、鳴神が五枚目のクッキーに噛みついた時だった。
 思い返せば兆候はあった。いつもは聞き役に回ることの多い鳴神が、職場での出来事などを積極的に語っていたのだ。和らいだ表情ではあるが赤くなってはいなかったため、休日前で気持ちもくつろいでいるのだろうと思っていたが、どうもそれだけではなかったようだ。
「ルカさん、チョコレート効いてるんじゃない?」
「え?」
 だいたい、それほど甘い物が好きなわけでもない彼が、結構なボリュームのあるこのクッキーをずっと食べ続けているというのがおかしい。
「そうかな」
 言いながら、残りの部分も口に放り込む。この行動が既に変だった。由井ならばともかく、鳴神はこんなに食べっぷりのいい人間ではない。
「顔には出てないみたいだけど」
 由井が顔色を観察していると、鳴神は菓子を咀嚼し飲み込み、視線を合わせたまま、指についた菓子くずを舐めとった。

 ……う。

 腹の奥に、ずくりと生じる鈍い衝動。
 たとえ顔が赤らんでいなくても、並外れた美貌の持ち主である鳴神の眼力は強烈だ。そして赤らんでいない分、それは、獲物を射るような緊張をはらんでいる。
 由井の見つめる前で、ティッシュペーパーで指をぬぐった美貌の主は、やおら頬杖をつき。
「俺」
 すこし傾いだ角度で、実に優雅に微笑んだ。
「新の目、好きだな」
「はい?」
 らしくない、唐突な話題転換。
「奥二重の切れ長で、きりっとして、涼しげで。黒目と白目のバランスもいい」
 妙に具体的な褒め言葉は、彼の勤め先の職種のせいだろうか。
「ああ、眉毛も好きだ」
 テーブルの対面からすうっと伸びてきた右手が、左の眉に触れる。不意を衝かれ、由井の眉間にかすかにしわが寄る。
「くっきり直線的なラインで、ほどよく太くて」
 中指と人差し指が、眉の上を滑る。慣れない刺激に、耳の後ろがぞわっと粟立つ。
「眉尻も、鋭角に尖ってて」
 中指が止まり、その部分の毛をさりさりと逆撫でする。
「すごく、綺麗だ」
 このよくできた顔にうっとりした表情で見つめられながらそんな台詞を吐かれて、平静でいられる人間はそういないだろう。
 由井は頬が熱くなるのを感じながら、なんとか口を開いた。
「ききききれいってそれは、」
 あなたの方がよっぽど、と続けたかったが叶わなかった。その綺麗な顔が、近づいてきたからである。
 身を乗り出した鳴神は、テーブルの上に置かれていた由井の左手の上に右手をかぶせ、体重をかけた。
「目、閉じて」
 逆らえず言うとおりにした由井のまぶたに、そっと唇が落とされた。そのささやかな刺激にそぐわぬ衝撃が、全身を走る。
「可愛いな、新」
 真っ赤になって固まっていた由井がその言葉に目を開けると、からかうような笑みをたたえた唇が、唇に触れた。
――場所、変えようか」
 軽くたわむれて出ていった舌先に、かすかに、塩の味を感じた。