The Only Exception (3)


「ただいま戻りました」
 凛とした声が響く。鳴神は講演会用の草稿から目を上げた。
「はい、お帰り。お疲れ様」
 室長の返事をバックに、ヒールの音が近づいてくる。それは彼の座る椅子の脇で止まった。
はるかさん」
 遥は鳴神の下の名前である。これを聞くたびに、まるで姑が嫁のことでも呼んでいるみたいだなと思ってしまう。同い年のはずだが。
「頼んだ物、買っておいてくれたかしら。あら、何か疲れてない?」
 白々しい守口の言葉に、「別に」と手提げ袋を差し出す。まあ、この気疲れの理由は彼女の想像したものとは多少違うだろうが、そこまで報告して墓穴を掘るような真似をする鳴神ではない。
「会長じきじきの銘柄指定だから悪しからず。前回相当お気に召したみたいなのよ。他とは一味違うんですって」
「前に持っていったことがあったか?」
「先日会長夫人が足を捻挫されたでしょう? あの時お見舞いにお贈りしたの。あなた例の件で出張中だったわ」
「ああ、あの時か」
 いま研美はヨーロッパの二ヶ所に化粧品販売の合弁会社を設立するプロジェクトを進めている。守口も英語はネイティブ並みに話すが、鳴神は日英独仏の四ヶ国語に長け、イタリア語とスペイン語も簡単な日常会話くらいならこなす語学力の持ち主であるため、日本国内では守口、海外出張時には鳴神が社長のお供をする場合が多い。片方が社長に付いている時は、もう片方がバックアップに当たる。そんな体制が確立されていた。
「うわー、2ショット」
「すごい迫力」
 隅の方でこそこそ声がする。守口は鳴神と並んでもけっして見劣りしない容姿を持つ数少ない社員のうちの一人だった。一分の隙もなく整えられた眉の下にはくっきりとした二重の瞳、形の良い鼻と唇。流行のスーツを違和感なく着こなすスタイルと姿勢の良さ。衣装も化粧も髪型も「あの化粧品メーカー研美の社員」かつ「社長秘書」という立ち位置にふさわしく、華美になりすぎる寸前の絶妙なバランスでとどめているが、そこにいるだけではっと目を引くような女ぶりである。
 守口は指先まで気を遣った動作でその腕を組み、美人秘書と名高いその細面をにこりともさせずに言った。
「すぐに出るから、必要な連絡事項だけ教えて頂戴」
「明日3時からのアジア方面戦略会議の件だが……」
 誰もが認める美男美女の組み合わせだというのに、二人の間に色っぽい雰囲気は欠片も存在しなかった。

「では、会長との会食に随行して参ります。終了後直帰いたしますので」
「はい、行ってらっしゃい」
 優美に一礼して去っていく守口。軽く息をついた鳴神に、
「お疲れ」
 村田がにこにこと話しかけてきた。
「コンビももうじき三年になるのに、君ら相変わらずだねえ。目の保養にするにはちょっと和やかさが足りないね」
 この村田室長も実はけっこうな曲者だ。一見、のほほんとした普通のオジサンのようだが、大企業研美の役員連中を陰で支える秘書室を束ねる人物が普通のオジサンのわけはない。一応、守口と鳴神が社長秘書となってはいるが、社長がいちばん信を置いているのはこの村田の采配についてだと二人とも理解している。
「目の保養はともかく、和やかさに関しては守口の方に大幅に責があると思いますが」
 鳴神がそう言うと、
「守口は努力の人だからねえ」
 という謎の答えが返ってきた。
「私に努力が足りないと?」
「いや、そうじゃなくて。鳴神、君、出勤するのに化粧なんてしないだろ?」
「しませんよ」
「寝る前にこれでもかとスキンケアしたり、毎週末美顔パックしたり」
「しません」
「ウェストのサイズを保つために食後のデザートを我慢するとか」
「しませんね。というか、デザートは別になくても平気です」
 村田が笑う。
「だからだよ。守口があの見た目を維持するために己に課している努力を、君は何もしてないのに『社長、両手に花ですね』とか言われちゃったりして。腹も立つでしょうよ」
「私は男ですが」
 鳴神のひねりのないツッコミに、返ってきたのは変化球だった。
「そこが面白いんだよね。君が女性だったら守口は絶対そんな意地悪してないと思うんだ、洒落にならないから。君相手なら洒落で済むから、いいおもちゃになってるんだろうね」
「おもちゃ……」
「まあ守口もストレス溜まってるんだと思うよ。いくら研美が女性社員の方が多い会社だからって、それはトータルでの話で、我々が相手をする役付きのお偉いさん方なんかは男が圧倒的だろう? 社外はもっとそうだし。頭が固いのもいれば、セクハラオヤジだっているんだよ。憂さ晴らしにちょっと同僚をいじるくらい大目に見てやんなさい。それに、本気で嫌なら黙ってる君じゃないでしょ」
 まあ、つまるところそうだった。守口の態度を本気で嫌がっているなら、あらゆる手管を使って解決するだけの行動力が鳴神にはある。そういう気になっていない以上、今のところそれは許容範囲内ということだ。
「そういえば守口主催の『ストレス解消女子カラオケ大会』がまたあるんですよね……」
 時々催される所属部署の垣根を越えたその集まりに、彼は毎度強制参加させられるのだ。守口だけならともかく、伊藤やその他女性陣に「来てくださいね!」とお願いされれば嫌とは言えない。人前で歌うのが苦手な自分に無理やり歌を歌わせて楽しむのがストレス解消の一環なのだろうと鳴神は思っているが、そんなことで楽しんでいるのは守口くらいのもので、他の女子にとっては素直に「いい男を眺めてストレス解消」である。
「君ら殺伐としてるけど、けっこう仲良しだよね」
 村田が面白そうに言った。
「まったくそんな気はしませんが」
「つきあっちゃえばいいのに」
「セクハラですよ室長」
 鳴神は会話を切り上げ、視線を手元の草稿に戻した。社長がゲスト講師としてこの講演会に登壇するのは二週間後だが、早めに仕上げるに越したことはない。
 村田が知っているのかどうか知らないが、守口には彼氏がいるはずだ。一度彼女が何かの飲み会で酒を過ごしてしまった時、迎えに来たことがあった。確か、関という。背はあまり高くなく、ちょっと太めで、とても温厚そうな男だ。彼は支離滅裂な守口の愚痴や絡みにも嫌な顔ひとつせず、優しく介抱してやっていた。あの二人はうまくいっているのだろうと思う。
 振り返って、自分に最後に彼女がいたのはいつだったか。
 仕事人間で出張による不在も多い鳴神は、つきあっている相手に不満を抱かれ、別れてしまうというパターンが多かった。かっこいいから浮気が心配、見た目が釣り合わなくてつらくなりそう、というハードルを越えてきてくれた女性も、仕事仕事でほったらかしにされることには耐えられないらしい。女性社員の間ではひそかに「鳴神さんは観賞用」という慣用句が使われているが、これには「恋人にするにはちょっとね」というニュアンスが多分に込められている。
 もともと恋愛にも淡白だったし、以前うんざりするような目に遭ったこともあって、気づけばずいぶん独り身の期間が長い。でも、だからといって特に不満を感じたことは……
 ぞくり。
 不意に昼の出来事を思い出し、鳴神は身を震わせた。

 気分が悪くならなかったのも謎だが、どうしてあんな状態になったのかはもっと謎だ。
 ひょっとして俺、自分が思っているより欲求不満なのか?

 答えの出ない思考は、目の前で鳴る内線電話の音に中断させられた。
『鳴神さん、「月刊ビジネスアナライザー」さんから明後日の社長の取材について、2番です』
「了解」