The Only Exception (4)


 由井は物思いに沈みながら、ボウルいっぱいの溶かしたチョコレートを3分の2ほど、大理石の台の上に流した。パレットナイフで混ぜながら冷ましていく。後ほど元のチョコレートの中に戻し、全体の温度調整をするのだ。「テンパリング」と呼ばれるカカオバターの結晶を整えるための作業で、ショコラティエにとっては基本中の基本である。

 思い出すとまだドキドキする。

 昼に来店したあの男性客。彼のスーツには社員章が付いていた。アヤメの花をモチーフにした特徴的なシンボルマークは、「KEN-BI」のロゴとともにテレビで見ない日はないほど有名な化粧品会社のものだ。きっと、この近くにある本社ビルで働いている人だろう。化粧品会社というのは男性社員も美しいのか、などと思ってしまうほど綺麗な男だった。
 それにしても、なんで彼はあんな赤い顔をしていたのか。あの表情はちょっと、みだりに他人に見せていいものじゃない気がする。あれは、まるで――
「アラタ」
 スーシェフのルブランの声。
「ん?」
「そろそろやばくない?」
「あ」
 しまった。ひとすくい唇の下側にあて、温度を確認する。うおぅ、ギリギリ。
「珍しい、アラタがぼんやりするなんて」
 由井があわててチョコレートを戻し込んでいるボウルを支えながら、ルブランが意外そうに言った。


 翌日。由井が店舗の様子をチェックしていると、研美の美容部員が入ってきた。時おり客として見かけるこの制服を、彼は待っていた。
 厨房を出る。数人の客がざわめく。商品の確認などするふりをしてちょうどその美容部員の接客に当たるように調整すると、彼女は目を輝かせ、開口一番言った。
「あの、由井さんですよね?」
「はい」
「わあ、私ラッキー!」
 ビジューの日本出店に際し、メディアは店や商品だけでなく「本場に認められた日本人ショコラティエ」にもスポットをあてた。由井自身は仕事以外に注目されるのはあまり好まなかったが、客商売である以上むげにするわけにもいかない。そして由井は十二分に女性に受ける容姿の持ち主だったため、いまやちょっとした有名人扱いなのだった。
 注文を受け箱詰めしながら、由井は彼女に話しかけた。
「研美さんの方ですか?」
「はい、そこの本店に勤めてます」
 予想通り、本社ビルの一階にある店舗から来たようだ。続ける。
「研美さんといえば、昨日のお昼、モデルみたいに綺麗な外国人風の男性がいらっしゃったんですよ。社員章を付けてらしたので、そちらの社員の方かと思うんですけど」
「ああ、きっと秘書の鳴神さんだ」
 ナルカミ。珍しい苗字だ。
「やっぱり有名なんですか」
「ええ、びっくりするほど綺麗な人でしょ? ハーフなんだって。私は異動でこっちに来たばかりだからまだよく知らないんだけど、女子社員の間ではアイドルみたい」
「へえー」
「でも私はちょっと苦手かな、クールで近寄りがたい感じだし。由井さんの方がかっこいいと思います!」
 いくらなんでもあの男よりかっこいいなんて、お世辞にしても無理がありすぎる。苦笑しながら「ありがとうございます」と商品を渡し、由井は厨房に戻った。彼にとって幸か不幸か、彼女は鳴神の特異な体質については知らなかった。
 情報を整理する。
 彼の名は鳴神。研美の社員。誰かの秘書。ハーフで社内のアイドル。クール……クール?
 彼の赤い顔しか印象にない由井にはその言葉はぴんと来なかったけれども、通常の彼はクールな人なのかもしれない。そのクールな人があんな顔をしていた理由、奪取してダッシュした理由は何だったのか。
 実は先ほど情報を聞くまで、彼は酒に酔っていたのではないかと思っていた。昼食時にアルコールをたしなむ欧米人はけっこういるからだ。しかし、彼は秘書だという。おそらく担当上司の世話をする立場なのだろう人間が、昼日中から酔っぱらうような真似をするとも思えない。
 いろいろと可能性を考えてみたものの、真相は鳴神氏本人にしかわからないことだ。さて、どうすれば確かめられるだろう。
 由井は気になったことはとことん追究するタイプだった。



「あ、こんにちは」
 テイクアウトバッグを持って店を出てきた鳴神が、かけられた挨拶に足を止めた。
「……こんにちは?」
「あの、先週はご来店いただきまして、どうもありがとうございました」
 スーツ姿の自分を怪訝そうに見る鳴神に、由井はすこし笑って続けた。
「この格好じゃわかりませんよね。私、ビジュー・トウキョウのショコラティエをやっております、由井と申します。今日は店休日で」
「あ、ああ」
 合点がいったらしい。鳴神は大きな目をまたたかせた後、冷静に言葉を継いだ。
「私、鳴神と申します。先日は、突然お店を飛び出してしまって、大変失礼いたしました」
 自分から言い出してくれるとはありがたい。
「いえ、とんでもないです。ですが、事情をお伺いしてもよろしいでしょうか? 当店の接客に何か問題があったのでしたら、遠慮なくおっしゃってください」
 おそらく相手側の問題だとは思うが、もしこちらに非があったのなら詫びて改めなければなるまい。そう思って言った台詞に、鳴神は意表をつかれたようだった。
「問題なんて、とんでもない。――実は、あの日は私、ちょっと体調がおかしくて」
「体調が」
「ええ、何か、熱でも出ていたようで。自分でもどうしてあんな行動をとってしまったのか、よくわからないんです」
 淡々と続ける。嘘をついている様子はなかった。
「なるほど、だからあんなに赤い顔をされていたんですね」
 由井が納得していると、鳴神は顔に手をあてて言った。
「顔、赤かったですか」
 気づいてなかったのか。まあ、自覚していたら外出できるような顔じゃなかったな、公序良俗的に。
「ええ、真っ赤でしたよ。かなり熱があったんじゃありませんか? もう大丈夫なんですか」
「あ、はい、もうすっかり良くなりましたから。余計なご心労まで負わせてしまいまして、申し訳ありませんでした」
 再度謝罪の言葉を口にする鳴神。こうして話してみると、本当にあの時の客と同一人物なんだろうかと思うほど印象が違った。記憶の通り綺麗な男だったが、あの美容部員が言っていたように、確かにクールで、近寄りがたい感じだ。自分にとって気まずい話をしているはずなのに、笑ってごまかしたりとか、開き直ったりとか、そういった感情がみられず、あくまで淡々としている。物腰は丁寧だが、愛想も隙もない。日本語が通じるのかどうか不安になるような外見なのに、気遣いも敬語も完璧だというギャップも、気後れを助長させる。
 明かされた事情はそれ以上気になるものではなかった。目の前にいるのは、美人とはいえ男性。あの凄絶な色気は、特殊な状態における一時的なもので、今はみじんも感じられない。それどころか、クールっていうか、冷たそう。
 さて、どうしようか。
 由井はすこし迷ったが、準備しておいたアイディアを予定通り決行することにした。彼は迷ったらとりあえずやってみるタイプでもある。
「いえ、理由がわかって安心しました。どうぞもう、気になさらないでください。ところで、鳴神さんは、研美にお勤めの方ですよね?」
 社員章を見ながら話を切り出す。
「はい」
「今晩は何かご予定がありますか」
「……それは、確認しないとわかりませんが」
「私、今晩『リリス』にディナーの予約を入れているんですけど、一緒に行ける人がいないんです。もし都合がつくようでしたら、ご一緒してもらえませんか」
 リリスは研美が経営する、星付きの高級フレンチレストランである。本社ビルと同じ通りにあり、ビジュー・トウキョウにも近い。
「私が?」
「はい。ずっとシェフパティシエのエルネスト・デュシャン氏のデセール(デザート)に興味があって、一人ででも行きたいと思っていたんですけど、やっぱり連れがいた方が行きやすいですし。もちろん、お代は私が持ちますので」
 由井がそう言うと、鳴神は意外なところに反応を示した。
「ああ、ムッシュ・デュシャン」
「ご存知ですか?」
「ええ、存じております。彼をリリスに招聘する際、私が交渉役を担当していましたから」
「本当ですか!?」
 思わず食いついてしまった由井の勢いに、鳴神が目を丸くする。
「あの、俺ぜひ一度ムッシュ・デュシャンにお話をうかがいたくて! デセールの技術についてとか、新作を作る時の発想方法とか、シェフとしての心構えとか……あ、すみません、まだ都合もわからないのに」
 いけね、俺って言っちゃった。
 我に返った由井の前で、鳴神はかすかに微笑んだ。初めて現れたやわらかい表情に、ほっとしてもいいところなのになぜかどきりとしてしまった。
「あ、あの。都合を確認していただいたら、お手数ですがこちらに連絡をもらえますでしょうか」
 由井は名刺入れからショップカードを取り出し、裏に携帯番号を書いて、鳴神に手渡した。