The Only Exception (5)


「ただいま戻りました」
 昼食を買って秘書室に戻ってきた鳴神に、
「はい、お帰り。鳴神、今日はイケメンにナンパされてたって?」
 村田がいつもの挨拶+αの声をかけた。
「どうしてご存知なんですか」
「いや、佐藤ちゃんが見たっていうから」
 佐藤は伊藤と同じく受付の女性である。
「確かにイケメンでしたが、別にナンパではありません」
 行為的にはナンパのようでもあるとは思ったが、そう言うとまた村田が面白がるので黙っていた。
「あっそ。何だったの」
「先日贈答品を購入したお店の方ですよ。たまたまお会いしたんです」
「それ何のフラグ?」
「フラグ?」
 フラグ=物語のその後の展開に関わるスイッチ。ある出来事に遭遇するなど、必要な条件を満たすことでこのスイッチが入り、何か特定の結果が導かれることになる。鳴神は語学には堪能だったが、こういう俗語には疎かった。ちなみに、スイッチが入ることを「フラグが立つ」と言い、戦争映画などで脇役の兵士が「俺、故郷に帰ったら結婚するんだ……」と発言した場合「彼には死亡フラグが立った」と表現される。
 村田が時々わけのわからないことをつぶやくのは今に始まったことではない。今回も、別に回答を求められているようでもなかったので、鳴神はたいして気にせず自席に戻った。買ってきたサンドイッチをかじりながら、午後のスケジュールを確認する。
 本当は、由井に誘われた時点で大きな残業の予定はないと把握してはいたが、ほとんど知らない人間の誘いに即座に乗るほど鳴神は軽率な人間ではない。しかし、誘いを即座に断るほど由井は不審な人物でもなかった。鳴神はその容姿ゆえに、主に女性時々男性にいわゆるナンパをされることがあり、今日も最初に声をかけられた時には警戒した。しかし彼の身元はあきらかだったし、突然店を飛び出した変な客にも礼儀正しく接するような人物だった。
 それに、リリスは予約を取ることすら難しい人気店である。妙な目的を持って鳴神に近づくために昨日今日で用意できるような店ではないし、その目的にふさわしいとも思えない。彼は十中八九鳴神とは関係なく以前から予約を取り、休みだというのにスーツを着て来店の準備をしてきたのだ。そして、鳴神が断っても一人で行くに違いない。あの、ジャケット着用のドレスコードがある高級フレンチに。それはよほどのグルメか、仕事などの目的でもなければなかなかできないことだ。きっと彼は研究熱心な、いい職人なのだろう。彼の目的である人物について考えると多少面倒な気もするが、真面目に頑張っている人間に協力するのはやぶさかではない。
 ……しかし、うまくごまかせて良かった。動揺を外に出さない自信はあるが、あれは間違いなく過去最大級の冷や汗ものだった。
 鳴神は食事を終えると、私用電話をかけるため、廊下へと出た。
 由井のためばかりではない。鳴神も、彼に確かめたいことがあった。


「はい、由井です。あ、先ほどはどうも。……あ、そうですか、ありがとうございます。急な話なのにすみません……えっ? ……ええっ、本当に!? うわ、信じられない! ありがとうございます! ……はい、それで結構です。楽しみにしています! では、六時半に」
 興奮冷めやらぬ状態で電話を切る由井。なんと、鳴神は誘いをOKしてくれたばかりか、リリスに連絡を入れ、デュシャンに話を通してくれたという。おかげで今晩はデュシャンがテーブルまでやって来て、話をする時間を設けてくれるというのだ。
 まさかこんな展開になるとは思わなかった。冷たそうに見えたけどいい人だった。誘うのを止めなくて本当によかった。
 彼は鳴神と自分の判断とに感謝した。

 由井は確かに研究熱心な、いい職人だった。天才との呼び声高いフランス人パティシエ、エルネスト・デュシャンのデセールのために、難しいといわれているリリスの予約を手を尽くして取った。ランチではなくわざわざ敷居の高いディナーにしたのも、その方がデュシャンが挨拶に来る可能性が高いのではないかと思ったからだ。残念ながら一緒に行ってくれそうな人々の都合がつかない日取りになってしまったが、一人でも行くつもりだった。
 そんな時、話をしてみたいと思う男が現れた。彼の職場はリリスの経営母体であり、彼は秘書だという。おそらく役員レベルの人間を担当しているだろうから、接待等でリリスを利用することがあるのではないか。また彼自身、高級フレンチに違和感なくとけこみそうな人物だったし、ひょっとしたら、誘えば一緒に来てくれるかもしれない。由井はそう考え、行動を起こした。
 鳴神と「たまたま」出会うすこし前。由井は研美本社の社員通用口が見える書店で、立ち読みをしながら時間をつぶしていた。
 社内にいるならば、おそらく昼になれば出てくる。
 その読みは当たり、由井はこっそり彼の後をつけた。そして近くのベーカリーに入っていくのを確認し、出てきたところで声をかけたのである。
 そう、フラグは立ったのではない。立てられたのだ。



「こんばんは、由井様、鳴神様。お待ちしておりました」
 ドアマンに開けられた扉の向こうで、タキシード姿のディレクトール(支配人)が恭しく出迎えてくれた。
加々美かがみさん、お久しぶりです」
「いつもありがとうございます、鳴神様」
 慣れた様子の鳴神。常連なのか、と思っていた由井に、
「由井様は初めまして、わたくし、加々美と申します。どうぞお見知りおきください」
 加々美は見る人をくつろがせる笑みで声をかけた。
「本日はデュシャンがご来訪を大変喜んでおりまして」
 先に立って案内する加々美の話に、鳴神が答える。
「そうですか、うれしいです。後ほどお話しできるのを楽しみにしていますとお伝えください」
「そんなことを伝えたらデセールより先に出て参りそうですよ」
 歩いても音のしない重厚な絨毯に、洗練されたインテリアの数々。豪奢なシャンデリアを頂く螺旋階段を上り、通された場所はなんと個室だった。
「今日は私用ですから、普通のフロアで構わないのですけど」
「いえ、どうぞこちらを。その方がデュシャンも気兼ねなくお話しさせていただけると思いますので」
 鳴神の言葉に加々美はそう答え、にこやかに着席を促した。

 注文を終えて一息つくと、由井は感嘆とともに鳴神に尋ねた。
「すごい、VIP待遇だ。鳴神さんは、よくこちらのお店にいらっしゃるんですか?」
「社長秘書をしております関係で、時おり会食などで利用します」
「社長秘書!」
 参った。誰かお偉いさんの世話をしているのだろうと思ってはいたが、まさかトップの秘書だとは。待遇がいいのも当然だ、ここの経営者の身内のようなものじゃないか。
「そんな方とは知らず、ぶしつけに誘ったりして失礼いたしました」
 恐縮する由井に鳴神は、
「やめてください、私は社長ではなくて社長の秘書です。別に私が偉いわけではありません」
 と言い、
「それに、私的に来るのは初めてだし。こんな店、そうそう個人では来れませんよ」
 と続けた。見た目は超VIPレベルだけど、どうやら一般的な感覚の持ち主のようだと、由井はほっとした。
「あと、敬語を止めよう。仕事じゃないし」
「え?」
 鳴神はあの時と同じように、かすかに微笑んだ。
「『俺』でいいよ。俺も『俺』って言うから」
 彼は聞き逃していなかったようだ。