The Only Exception (6)


 "L'iris"――「リリス」は数少ない日本の三ツ星フレンチの座にふさわしく、料理はもちろん、カトラリーの質からスタッフのサービスまで、すべて一流である。上質な空間の中、あらためて由井と自己紹介を交わした鳴神は、あたりさわりのない話をしながら、「確認したいこと」を持ち出すタイミングを計っていた。
 メインの鴨の煮込みが運ばれてくる頃、鳴神はいよいよ本題に入った。
「ビジュー・トウキョウは毎日盛況のようだね」
「おかげさまで、忙しくしています」
 程度は軽くなったものの、由井は敬語を継続していた。先ほどの自己紹介で自分が年下だと知ったからかもしれない。
「実は、うちの会長もとても気に入っていて、土産にねだられるくらいなんだ」
 由井はそれを聞くと、嬉しそうに笑った。
「それは光栄です」
「俺はチョコレートに関しては門外漢だけど、会長に言わせるとビジューのチョコレートは他とは一味違うんだそうだ」
 ワインで口を潤し、続ける。
「Webサイトで読んだところでは、特別な材料を使っているらしいね」
「はい」
 由井は牛フィレのポワレを大ぶりに切り取りつつ、
「読んでもらったならご存知かと思いますが、当店では、南米に独自に所有するカカオ農園で採れたカカオ豆だけを使って、チョコレートを作っています」
 と答えた。なんでも、ビジューの創始者である先代が素材に非常にこだわる人で、そのこだわりが高じるあまり、とうとう自らカカオ農園を所有するまでになったのだという。収穫されたカカオ豆はパリ郊外にある工房まで運ばれ、チョコレートに加工されているのだとか。
「そういうのは珍しいことなのかな」
「珍しいですね。普通はチョコレートメーカーから製菓用チョコレートを仕入れて、そこから商品を作るんです。農家からカカオ豆を仕入れてチョコレートに加工するところから手がけているショコラティエもいますが、それもかなり少数です。大きなメーカーならともかく、当店のような小売が中心の業者が生産から加工まですべて独自に行っているというのは、他ではあまり聞きません」
「育てているカカオの種類も珍しい物だそうだね」
「はい。質はいいけど病害虫に弱くて栽培が難しい、クリオロ種という希少な種類のカカオを中心に栽培しています。収穫が安定するまでは相当苦労したと聞いています」
「商品は全部そのカカオで作っているという話だけど」
「その通りです。一部他店に卸している製菓用チョコレートには他の種類のカカオも使っていますが、ビジューの店頭で販売するチョコレートに関してはすべてクリオロ種のみを使用しています。クリオロ種は香りが高いのが特徴なんですけど、収穫量が少ないので、たいていは他の種類のカカオと混ぜて香りづけに使うものなんですよ。商品のすべてをクリオロで作っているショコラトリーは、世界中探してもおそらくうちだけでしょうね」
「じゃあ、本当に『他とは一味違う』のか」
「そうですね。それに、大量生産できないので、パリにも店舗は一つしかありません。日本への出店は業界ではけっこう大きなニュースだったんですよ」
 話している間にも、由井の前の肉はさくさくと減っていった。一口のサイズが大きく気取らない食べ方だが、がっついている印象はない。なんというか、実にうまそうに食べている。
「俺もビジューの味に惚れ込んで弟子入りを志願した人間なんで、気に入っていただけるとほんとに嬉しいですね」
 鳴神の鴨がなくなるのと、その1.5倍ほどの大きさだった由井の牛フィレがなくなるのはほぼ同時だった。


 芸術家肌の天才パティシエと評判のエルネスト・デュシャンによる充実したデセール類は、リリスの看板のひとつである。
 コース料理には口直しの軽いデセール+メインのデセール、そして食後のお茶に30種類のプティフール(小さな菓子類)を好きなだけ選べるワゴンサービスが付く。今日二人が頼んだのはコースではなくアラカルトだったが、これにも口直しのデセールと食後のお茶は含まれている。由井はさらに、デセールのメニューからチョコレートを使った一品をオーダーしていた。
 料理の後、運ばれてきた口直しのデセールはパッションフルーツとミントのソルベ(シャーベット)だった。色鮮やかなソースとフルーツ、細長く成形したチュイル(薄焼きクッキー)を駆使したデコレーションはさすがの美しさだったが、チョコレートは使われていなかった。由井が残念に思いつつもひとつひとつ、じっくり味わっていたところ、

Bonsoir!こんばんは

 なんと、コックコートを着たデュシャン自らが菓子満載のガラスのワゴンを押しながら登場した。
「ムッシュ?」
「ハルカ!」
 鳴神が立ち上がるや、デュシャンはワゴンを放置して小走りに近づき、熱烈なハグをした。というか、飛びついた。由井が目を丸くする。
「ムッシュ・デュシャン、お久しぶりです。まさかワゴンと一緒においでになるとは思いませんでした」
 鳴神はデュシャンの登場の様子には驚いたようだが、飛びつかれたことには驚いていないようだ。一方デュシャンはうっとりした瞳で鳴神を見つめている。背の高くない彼はまるで鳴神にぶら下がっているかのようだった。
「驚かせてすまないね。いや、まだデセールが途中なのはわかっていたんだが、厨房で準備しているワゴンを見て、これがハルカのところに行くのかと思ったらもういてもたってもいられなくなって、つい押してきてしまったんだ。ああ、今日も美しいねハルカ。会えて嬉しいよ」
「恐れ入ります」
「でも僕は悲しい、君までこの店にデートに来るなんて!」
「別にデートではありませんが」
「カレンもこの前来たんだ。誕生日ディナーだとか言って、ふとっちょな男と一緒に」
「そうでしたか」
 ちなみに、香蓮かれんとは守口の下の名前である。余談だが、鳴神は別に彼女のことを「香蓮さん」と呼んだりはしていない。
「ドレスアップした彼女はそれは美しかったが、僕は悲しかったよ。涙にくれながらデセールを仕上げたから塩味になってしまったかもしれない。皆僕を置いていくんだ……。で、こいつが果報者のショコラティエか?」
 冷静な鳴神と独走状態のデュシャン、二人のテンションの噛み合わなさにあっけにとられていた由井だったが、なんとか気を取り直して立ち上がり、
「はい、アラタ・ユイです。今日はムッシュ・デュシャンにお目にかかれると聞いて、とても楽しみにしてきました」
 と、流暢なフランス語で挨拶をした。
「ん? 君、何か見覚えがあるな」
「ムッシュ、彼は先日この近くにオープンしたビジュー・トウキョウのシェフショコラティエなんですよ」
 鳴神の説明に、デュシャンはしかし否定の文句を返した。
「いや、そうじゃなくて。……君、『オテル・ドゥ・ヴァンタン』にいなかったか?」
「覚えていてくださったんですか!?」
 驚く由井。デュシャンが見上げながらうなずく。
「ああ、やっぱりあの見習い坊やか。日本人にしては背が高いし、人一倍熱心な働き者だったから覚えてるぞ。僕は自分が努力するのは大嫌いだが、努力する他人は大好きなんだ。ビジュー・トウキョウのシェフだって? ずいぶん出世したじゃないか」
「ありがとうございます」
「若いシェフだな。何歳だ」
「26です」
「僕より6つも年下だと? いや、シェフなのはまだいい。それでハルカとデートなんて許しがたい。僕もしたことがないのに」
「だからデートではありませんムッシュ」
「まああのふとっちょよりはだいぶましな見た目だが……」
 デュシャンはしばらくぶつぶつ言っていたが、
「おっと、忘れるところだった」
 と、置き去りにしていたワゴンに戻っていった。入口の外に、彼を追ってきたらしいメートル・ド・テル(給仕長)が困惑しているのが見える。由井は、加々美に個室に案内された意味がわかった気がした。

「さあ、どれを選ぶ? どれも自慢の逸品だ」
 忘れかけてたくせに、というツッコミを鳴神はおくびにも出さず、宝石のような小菓子の並ぶワゴンを眺めた。メートルは部屋に入ってこなかった。とりあえずこの場はデュシャンに任せることにしたようだ。
「全部ください」
 迷いなく言い切った由井に鳴神は驚いたが、デュシャンは表情も変えず「君はそう言うと思ったよ」と、どんどん皿に載せていった。
「ハルカは?」
「私はもう満腹なのですが……」
 ためらったが、思い切った。
「その、それを一つ」
 鳴神は小さなチョコレートのマカロンを指した。デュシャンがおや、という顔をする。
「いいのかい?」
 彼は鳴神がチョコレートを食べられないことを知っている。最初に伝えたときは相当がっかりされたものだ。
「はい、ちょっと試してみたくて」
「そうか、アラタに影響されたんだな」
 デュシャンはそれ以上疑問には思わなかったようで、マカロンを一つ鳴神にサーブした後、全種類のプティフールが並ぶ皿を前に由井と問答を始めた。
「このギモーヴ(マシュマロ)は面白い形をしていますね」
「そうだろう、風呂で思いついたんだ。日本の風呂はいいな、最高だ」
「このショコラのガナッシュの風味は、何か、花ですか? ジャスミン?」
「うん、香料ではなく本物の花びらを使っている。香りも味も繊細で美しいだろう」
「あ、先ほどのデセールのソースに使われていたコンフィチュール(ジャム)についてなんですが……」
 二人の会話をBGMに、マカロンを口元まで持っていった鳴神だったが。

 ……やっぱり、だめだな。

 そっと皿に戻した。