The Only Exception (7)


――なるほど。では、香りを液体に移す際に注意することはありますか」
「そうだな、僕のやり方の場合……あ」
 デュシャンは唐突に話を切ると、特に説明もないまま踵を返して去っていった。
「ムッシュと面識があったんだ」
 鳴神の声に、質疑応答の途中で放り出された由井が我に返ってうなずく。
「はい、フランスに行って初めて働いたホテルの製菓部門で、ムッシュ・デュシャンがシェフをされていたんです。でも大きなホテルだったから製菓だけで十人以上いたし、俺が働き始めて二ヶ月くらいでムッシュは他のパティスリーに移ってしまったのに、まさか覚えていてくださるなんて」
 当時から天才の名をほしいままにし、名門ホテル「オテル・ドゥ・ヴァンタン」の史上最年少のシェフパティシエであったエルネスト・デュシャン。一介の見習いにとっては雲の上の人で、その才能を遠くから眺めるばかりだった。ゆえに、そんな自分を記憶していてくれたことには素直に感動した。しかし。
「ご感想は?」
「……天才、ですね」
 デセールのみならずプティフールのひとつひとつにまで込められたその発想は斬新で刺激的だし、さも普通のことのように語る高度な技術は、ちょっと聞いただけでは簡単に再現できるようなものではないが非常に参考になる。だが、シェフとしての心構えについては……、聞いても役に立たない気がする。
 デュシャンの厨房での仕事ぶりに憧れていた頃はまだ、言葉もおぼつかなかった。あれから六年が経過した今、初めて彼と会話し、厨房以外での姿も目にすることができた。しかし前者はともかく、後者に関しては良かったのか悪かったのか、複雑な気分である。
「ムッシュは鳴神さんのことをとても……、気に入っているんですね」
 無難な表現に抑えてみた。
「ああ。実は最初はただの通訳で同席したんだけど、彼の希望で交渉担当にされてしまって」
 由井には納得だった。デュシャンは美しいものを愛することで有名な人物だったからだ。こんな愛し方をするとは知らなかったが。
「まあ、あの人の好意は子供のそれみたいなものだから実害はない」
 コーヒーに口をつける鳴神の文句なく整った顔立ちに、その顔のおかげでいろいろ苦労していそうだなと由井は思った。自分だって、発熱時の特殊な表情だったとはいえ、彼に惑いそうになったぐらいだ。
 あの顔、もう一回見れないかな。
 この時はまだ、好奇心だった。

 加々美に叱られた、と幾分しゅんとして戻ってきたデュシャンは、由井の頼んだデセールに関してはメートル・ド・テルの仕事を奪い取ることはなかった。さっきはこれの仕上げのために厨房に引き返したのだと思われる。
「スフレ・オ・ショコラ(チョコレートスフレ)でございます」
 一分の無駄もない動作でテーブルの上に置かれた一皿。ココット型からこんもりと盛り上がった、茶色というよりはむしろ黒に近い色のスフレは、金色の飴細工、オレンジソースとのコントラストが美しい。添えられているアイスクリームもチョコレートアイスなのはもちろん由井のオーダーだ。
「このスフレが本当に楽しみだったんです!」
「そうか、僕のスフレは最高だからな。感動する気持ちはわかるがしぼむ前にとっとと食べろ」
「申し訳ございません、おいしく食べていただきたいあまりについ口調が乱暴になってしまうほど、シェフパティシエ渾身の一皿でございます。どうぞ、熱いうちにお召し上がりくださいませ」
 デュシャンの台詞にまったく動揺しないばかりか、にこやかにフォローを入れて下がったメートルに内心で賞賛を送りつつ、由井はふっくらと焼けたスフレの真ん中にスプーンを入れた。
 一口含み、目をつぶる。そうしてゆっくりと吟味したのち、口を開いた。
「とろけます。素晴らしい舌触りと香りですね。それに、濃厚だけど苦味が効いていてめりはりがある。このチョコレートはギローヌ社のエクストラ・ビターですか?」
「そう、それをメインにブレンドしている」
「その他のチョコレートは……」
「由井さん、ムッシュ・デュシャン、申し訳ありません。ちょっと電話をしなければならないので、席を外します」
 鳴神の言葉に、二人はそれぞれに反応した。
「あ、はい、どうぞ、遠慮なさらず」
「ハルカは仕事人間すぎるのが玉にキズだと思わないかアラタ。落ち着いてデートもできないなんて」
「だからデートじゃありませんって」
 鳴神は、自分の台詞を引き継いでいる由井の声を背に、その場を去った。


 レストルームに設えられた椅子にどっと座り込み、眉間を押さえる。
 限界だった。あのチョコレートスフレから漂う濃厚な匂いに耐えられなくなって、逃げてきてしまった。電話はもちろん方便だ。製作者を前にして匂いで気分が悪くなったなどと言えるはずがない。
 鳴神は、ビジュー・トウキョウで自分がおかしな反応を示した理由を知りたいと思っていた。ショコラトリーと呼ばれるような店で扱っている高級チョコレートだからなのか、それともビジューのチョコレートが特別なのか、はたまた自身の体質が変化したのか。しかし、うかつに現物に手を出してまたあの状態になってしまうのは恐ろしいと、手始めにネットで情報を集めていた矢先、由井の誘いを受けたのだ。
 由井との会話から、どうやらビジューのチョコレートが特別であるらしいと目星がついた。さらにこの店でチョコレートを使ったプティフールを頼み、相変わらず匂いすら駄目だったことから、あの反応は高級チョコレートのせいでも、自身の体質が変化したせいでもないと確信した。これは由井の頼んだスフレで駄目押しされた。
 とりあえず、ビジューのチョコレートにだけ注意すればいいらしいとわかって、だいぶほっとした。万一体質が変わっていたのだったら、今後は今までとは桁違いにチョコレートに怯える生活を送る羽目になっていたところだ。


 加々美に見送られて店を出る頃には、四時間近くが経過していた。
「今日は本当にありがとうございました。とても貴重な経験ができました」
「こちらこそ、ご馳走様」
 深々とお辞儀をする由井に礼を返す。いつもは気を遣う側なので、新鮮な経験だった。
「鳴神さんはどこの駅から帰るんですか?」
「あ、いや、俺は」
 ちょっと迷ったが、この男ならば問題ないかと思い答えた。
「近いから、徒歩で」
「徒歩?」
「うん。俺朝が弱いんだけど、仕事柄遅刻するわけにいかないから、この近くに住んでるんだ」
 本当は別の理由の方が大きいのだが、そこは伏せる。じゃあと言いかけた時、由井が意外な反応をした。
「え、ここからどれくらいなんですか? 家賃は?」
 怪訝な顔をする鳴神に、彼は続けた。
「あ、すみません。俺実はいま住んでるとこ、フランスから戻る時によくわからないまま急いで決めちゃったんで、あんまり満足してないんです。乗り換えがあるから仕事で疲れてると面倒だし、チョコレートってすごく香りが強いから体に移っちゃって、満員電車に乗ると周りの人に迷惑なんですよね。もっと近くに引っ越したいなってずっと思ってて」
 ああ、そんな人間が満員電車で隣にいたら俺は死ぬかもしれない。……いや、ひょっとすると死ぬより恥ずかしい目に遭うかもしれない。
 恐ろしい想像に気を取られていたためか、住んでいるマンションの情報をわりとあっさり教えてしまった。普段の鳴神では考えられないことである。
「ああ、ちょっと高いけど、いいなあ。そこ、空き部屋ってないですかね」
「……確認してみようか」
「ほんとに? ありがとうございます! あ、じゃあ携帯のメールアドレス交換してもらっていいですか?」
 こうして、本人たちの意識はどうあれ、行為的どころか結果的にもナンパになったカタカナだらけの高級フレンチの夕べは終了した。



「室長。この日に代休を取りたいのですが、何か問題はありますか」
「どうせ先に自分で確認してるんでしょ。女性陣の士気が下がるのが最大の問題じゃないですかね」
 そう言いながら村田はスケジュールを確認した。
「OKです。まあ代休も有休も山ほど余ってるんだし、たまには消化してちょうだい。どっか行くの?」
「いえ、友人の引越しの手伝いをする予定です」
「ふーん、頑張ってね」
「ありがとうございます」
 村田は内心驚いていたが、そこは年の功でうまく隠した。鳴神が体調不良や有休消化の奨励以外で休みを取るなど、入社以来初めてのことではないだろうか。守口がいれば「あなた友達いたの?」と言っているところだろう。
 自席に戻る鳴神の後ろ姿を見ながら、つぶやいた。
「なんかフラグ立ってるよね」