The Only Exception (8)


 鳴神とメールアドレスを交換し、空き室情報を入手して三週間後。11月半ばのよく晴れた月曜日に、由井は鳴神の住むマンションの一階に引越してきた。
「12月から殺人的に忙しくなるんで、それまでに済ませたかったんですよね」
 四階上の鳴神の部屋でコンビニ弁当を遅い昼食にしながら、由井は語った。
「どうせ、今までも忙しくてあんまり荷物解いてなかったし、いつか引越すつもりで家具も増やさなかったし。思いきって今やっちゃった方がいいだろうと思って」
 仕事以外ではわりと不精な鳴神は、由井の行動力に感心するばかりである。昨夜普通に仕事から帰ったという彼はそこから本格的に荷造りを始め、朝一で運び出し、引越し会社のトラックに同乗してマンションに到着。そのまま運び込みと大物の荷解きを済ませ、まだ昼食と言える時間に引越しの大部分の作業を終えてしまっていた。
「そういえば送り状が付いたままの箱がいくつかあったな。やたら重かった」
 鳴神は荷物の運び込みから手を貸した。引越しスタッフは、箸……いや、ナイフとフォークより重い物を持ったことのなさそうな顔の彼が普通に男の力を発揮しているのを見て感動していた。
「ああ、あれ、あっちで買った本とか、修業ノートだから」
「修業ノート?」
 由井は二つ目の弁当を開けながら言った。
「俺はそう呼んでるけど、まあ日記みたいなもんです。習ったことや覚えたこと、教えてもらったレシピや配合、旅行の記録とかまでとにかく何でも書いてるノート。仕事で使うような大事な部分はパソコンの方に入力しちゃうんだけど、捨てられなくて」
 カツとじ弁当の中身がみるみる消えていく。リリスでも思ったがよく食べる男だ。身長は鳴神と同じくらいのようだが、体格は一回り大きい。しかし太っているわけではなく、きっちりと筋肉がついている感じである。ショコラティエというのはよほどの重労働なのだろう。
「そういえば鳴神さん、遥って名前なんですよね」
 由井はテーブルの隅に置かれている郵便物の宛名を見ながら言った。手伝いで一階まで降りたついでに取ってきた物だ。
「ああ」
「あんまりハーフっぽくないですね。純日本な名前」
 リリスでの会話の中で鳴神は、父が日本人で母がフランス人なのだと彼に教えていた。
「まあ、生まれたのは日本だし、育ちもだいたい日本だから」
「なんかめちゃくちゃ語呂がよくないですか? 鳴神遥」
 由井はナルカミハルカ、ナルカミハルカと繰り返し、ふと言った。
「あ、どっちにもルカって入ってる。面白い」
――母方の祖父母にはそう呼ばれてる」
「『ハル』じゃないんですか」
「父がハルだったから。春喜はるきというんだ」
「……あれ? 『アル』じゃなくて?」
 気づいたか。
「祖母はドイツ人で、祖父はフランス人だけどアルザスの人だから、 h アッシュも普通に発音する」
 フランス・アルザス地方はドイツとの国境地帯にある。長年に渡りその領有が争われ、幾度もフランス領になったりドイツ領になったりしてきた地域で、住民の多くはフランス語と、この地域独特の言語であるアルザス語のバイリンガルだ。文化的にはドイツに近く、アルザス語はフランス語ではなくドイツ語の方言に分類される。
「ああ、そういえばムッシュ・デュシャンもアルザスの人でしたっけね。俺もフランス住んでた時行きましたよ、アルザス。ストラスブールとコルマールに」
 由井は食べ終えた弁当の容器をレジ袋に押し込むと、ペットボトルのお茶の残りを豪快に飲み干し、続けた。
「独特の文化があって面白いところですよね。まだ贅沢できる身分じゃなかったんで、ホテルじゃなくて個人でやってる民宿に泊まったんだけど、コルマールで泊まった宿のご夫婦がとっても親切ないい人たちで。訛りがきつかったから俺のつたないフランス語とじゃ会話もおぼつかなかったのに、すごい親日家みたいで、片言で日本語話してくれたりしてね。そうそう、朝食に出たキッシュ・ロレーヌが絶品だった」
「うちの祖父母もコルマールで宿をやっているけど」
「まさか『フルリール・フネートル』じゃないですよね」
 笑う由井に、言葉をなくす鳴神。
「……そうだ」
「えーっ!!」
 今度は由井が言葉をなくした。
 気を取り直し、宿の場所や特徴、夫婦のことなどを確認する。そして由井が泊まったのは間違いなく、鳴神の祖父母が経営する民宿「Fleurir fenêtres(花咲く窓辺)」のことだと判明した。
「じゃあ、親日家だったのは、娘さんが日本人と結婚してたから?」
「そうだろうな」
「あー俺それわかんなかった、説明してくれてたかもしれないのに」
 由井がくやしそうにつぶやく。
「でも、すごい縁だなあ。あの二人のお孫さんと東京で知り合って、同じ建物に住むことになるなんて」
「本当に」
 まったく、由井にはいろいろと驚かされてばかりである。
「鳴神さん、夏休みとかアルザス行ったりするんですか?」
「いや、もうかなり長いこと行ってない。時々電話はするけど」
「そうなんだ。なんか仕事忙しそうですもんね。あ、今日はわざわざありがとうございます」
「たまには休みも取らないと、上司が人事からうるさく言われてるみたいだからな。あんまり気にしないでくれ」
「晩飯はおごりますから、何食べたいか決めといてくださいね。あ、そうだ俺、鳴神さんのお爺ちゃんたちと一緒に写真撮ってるはずだから、今度探しときますよ」
「……ああ」
 鳴神は第二の故郷を思い出し、遠い目をした。



 明日から社長は海外出張、随伴は鳴神の担当となる。定例の経営会議で守口と二人、社長の両脇を固めたのち、そろって秘書室に戻った。
「先に行ってる」
「わかったわ」
 鳴神はシステム手帳とファイル、ノートパソコンを持って、秘書室の隅に区切られたブリーフィングスペースに入った。打ち合わせや引継ぎが必要な際にはよくここを使っている。
 ほどなく、守口が姿を現した。
「今日は特に大きな問題はなかったわね」
「ああ。でもシンガポールの美容センター新設希望の件に関しては、詳しく調査しておいた方がよさそうだ」
 研美の秘書の仕事は、一般的な秘書のイメージである「文書作成やスケジュール管理、電話・来客対応その他諸々」に留まらない。担当上司の仕事の内容まで深く首を突っ込み、その判断の補佐をし、時には進言もする。
 秘書の仕事をそのように変えたのは、現社長の香月かづき良太郎だ。香月は一介の営業職からスタートして現在の地位に就いた、現場叩き上げの人物である。その大抜擢に当初は反発も多かったが、彼は持ち前の決断力と実行力で業績を上げ、古株のお偉方を黙らせてきた。
 鳴神は就職活動中、雑誌で香月のインタビューを読んで感銘を受け、研美に秘書希望としてエントリーすることを決めた。そうでなければ、この身長があってすらたまに女と間違われて苦労するというのに、わざわざ化粧品を扱う会社などを受けたりはしなかっただろう。香月はそのインタビューで、従来のように上司の世話をするだけではなく、上司のブレインとして動ける秘書を育成したいと語っていたのだ。
 香月はそれまで総務部の管轄だった秘書課を廃止、社長直轄の秘書室として再編成し、経営企画部のやり手部長として鳴らしていた村田を室長に据えた。現在秘書室には、伊藤や佐藤のように役員階の受付業務を行う者と、鳴神や守口のように各役員の補佐を行う者とが所属しており、後者は香月の希望に沿った形態の秘書として育成されている。鳴神は必要とあらばパシリも厭わないが、基本は企画立案や交渉、調査等の実務補佐能力を磨いてきた、いわゆる欧米型の秘書なのである。
「社長は乗り気でらしたようだけど」
「俺もいけるとは思うが、牧野部長の話す内容がいまひとつ信用できない」
「あ、そっち? 採算的な話じゃなくて」
「あの人はハッタリかます癖があるからな」
「そうね、それは否定しないわ。実際新設すれば成果は上がると思うけど」
 守口は三年ほど前、村田が外資系企業からヘッドハンティングしてきた中途採用者だ。鳴神はビジネス面には強いが、自身が化粧をしないためにどうしても商品知識に弱いし、見た目はどうあれ中身はやはり男性なので細やかな気配りには欠けるというきらいがある。村田が二人を組ませてみたところ、彼女はその弱点を補って余りある逸材だったため、村田は当時弱冠25歳の彼らを社長付きの秘書として抜擢した。その際にお偉方の一人が発した「両手に花」という言葉の裏には美しいだけで能がない、という嫌味が込められていたが、彼らの着任後あきらかに鋭さと速度を増した社長の仕事ぶりに、いつしかそんな意味は消え、純粋に賞賛、あるいはやっかみとして使われるようになった。
「じゃ、社長がお留守の間にそこらへん確認しておくわ」
「頼む。こちらでもできる限り調べる」
「あと、春の新シリーズの企画の件は?」
「そこは任せる。代わりに、次の個人投資家向けセミナーの内容については出張中に社長と詰めておくから」
 鳴神は守口の仕事ぶりについては全面的に信頼していた。仕事以外での自分に対する態度が限りなく姑に近くはあっても。

 一通り打ち合わせを終え、二人は分厚い手帳をたたんだ。
「ああ、肩こっちゃったわ。まだ時間あるわね、お茶淹れようっと」
 コーヒー派の鳴神に対し、守口は紅茶党だ。
「遥さんも飲む? 珍しいフレーバーティーが手に入ったのよ」
 ……まあ、聞かなくてもわかるが一応。
「何の香りだ?」
「チョコレート」
 花もほころぶ極上の笑顔だった。