The Only Exception (9)


『写真発見! 一枚送ります。他にもいっぱいあるんでよかったら今度寄ってください』
 そんなメールを鳴神が受け取ったのは、出張先のホテルだった。
 添付のファイルを開く。見覚えのあるリビングルームで、自分の祖父母に囲まれて由井が笑っている。不思議な気持ちだった。

 その後メールをやり取りし、水曜の夜だが今日訪ねることになった。どうせ休みは合わないし、同じマンションなのだから遠慮せずにいつでもどうぞと由井は言った。
 インターホンのボタンを押す。
「はいはい」
 由井は洗い髪の状態で出てきた。あのリリスでの夜以来、デュシャンの話にあやかって、時間のある時には長風呂をしているという。鳴神にはありがたいことである。もしまだ移り香が残っている状態だったら、事情を話して出直そうと思っていた。
 実はまだ由井には自分の体質について話していない。なんとなく言いそびれたままになっている。
 通されたリビングには真新しいソファが設置されていた。
「届いたんだな、これ」
 引越してきた日の夜、食事に行く途中で家具の店を見つけた由井はちょっと寄りたいと言い、「今度の部屋は長く住むことになりそうだから」と、入店して五分でこのソファの購入を決めていた。即断即決はどうやら性格らしい。
「やばいっすよ、疲れてる時とかここで寝そうになって」
 由井は鳴神にソファを勧め、自分はその前の床にあぐらをかいて、ローテーブルの上に置いたノートパソコンを操作した。ディスプレイには懐かしい木組みの家々、フランスなのにドイツ風のコルマールの街並みや風景が次々と現れた。
「ああ、このカフェ知ってる」
「ここで昼飯食べたんです。次がその写真」
「フラメンキッシュか」
「あ、あれ、なんだっけそれ、聞き覚えが」
「タルト・フランベのアルザス語」
 タルト・フランベ=フラメンキッシュは薄く延ばしたパン生地に玉ねぎとベーコンとチーズを乗せて焼いたピザのような食べ物で、アルザスの郷土料理である。
「子供の頃は玉ねぎが苦手だったから、キッシュ・ロレーヌの方が好きだったな」
「キッシュ・ロレーヌって玉ねぎ入れなかったっけ」
「入ってることもあるな。こないだ食べた店でも入ってた。でもうちのには入ってなかったんだ」
 しばらく写真をめくりながら話に興じていた二人だったが、ふと由井がつぶやいた。
「俺、思い出したんですけど」
 どきりとする。由井の顔を見たが、ためらう様子はない。違うのか。
「鳴神さん、あの居間に飾ってあった写真の中にいたんですよね?」
 実はもう一つ、由井に言いそびれていることがある。
「……大きな集合写真?」
「そうそう、これ」
 由井は並んでいるサムネイル画像の中から、鳴神に送ってきた一枚を選び、ダブルクリックした。大きく表示された画像の中、祖父母と由井の立つ後ろの壁に、額に入った大きな写真が掛かっている。
「ああ、あんまりよく見えないな」
 由井がさらに拡大すると、顔までは判別できないが、人々の並んでいる様子が見えた。鳴神はため息を飲み込んだ。
「母と一緒に、真ん中に写ってた」
 由井はそれを記憶していたようだ。
「えっ、あの子!? 俺すっげえ綺麗な女の子だと思ってた! え、でも、もっと明るい金髪だったような」
「金髪は、成長すると色が濃くなっていく人も多いんだ。俺もそうだった」
「へー、あの子が……あれ? お母さん? 真ん中って、でも、まさか」
 由井は真顔になり言葉を切った。その写真を撮った時、彼らが集まった理由が何だったのかを思い出したのだ。

 ――そこは、わかったのか。
「そう。それで、合ってる」
 鳴神は静かに言った。

「母は俺が12の時、病気で亡くなった。亡くなるまでの三年間、俺は母と一緒にコルマールに住んでいたんだ」


『お葬式に集まってもらっても、私は会えないじゃない?』
 母の言葉に、鳴神の曾祖母から従兄の子供に至るまでが一堂に会したのは、彼女が亡くなる半年ほど前の夏のことだった。


――すみません、俺」
「気にしないでくれ」
 凪いだ瞳だった。
「もう、十六年も前のことだし。母は自分の病気を受け入れていたから、最期を大好きな故郷で迎えられて、幸せだったと思う」


 ……母親は、幸せだったかもしれない。
 でも、当時12歳だった、その子供は?


「あの」

「俺、鳴神さんのこと、ルカさんって呼んでもいいですか」
――いいよ」

 ルカと呼ばれるのは久しぶりだ。母にも、そう呼ばれていた。
 「ルカさん」は初めてだけど。



 季節は12月を迎えた。出店後初めての師走、これから2月半ばまで、ビジュー・トウキョウの厨房は戦場と化す。クリスマスとバレンタインデーの特需はもちろん、日本にはお歳暮お年始なんてものもあるし、1月には有名デパートで、国内はもとよりヨーロッパ各地のショコラトリーが出店する毎年恒例の「ガラ・デュ・ショコラ(チョコレートの祭典)」と呼ばれる大規模な催事もあるのだ。他の従業員は交代で休みを取るが、由井は大晦日と正月二日以外は休みなしで2月14日まで働き続ける予定である。
「オ先ニ失礼シマース」
「はーい、お疲れ様」
 先に上がるルブランに声をかけながら、由井はチョコレートを削る作業を続けた。
 ルブランは由井がビジュー本店にいた頃から一緒に働いている仲間である。どちらかというと理論派で細かい由井とは対照的に、直感で判断するタイプの職人だ。ビジューの日本出店にあたりシェフを任命された由井は、いちばん仲の良かった彼にスーシェフをやってくれないかと頼んだ。ルブランの方が先輩で年上だったが、好奇心旺盛な彼は嫌な顔もせず二つ返事で引き受け、はるばる日本まで来てくれた。フランスではクリスマスは家族と過ごす日。里心のついた彼がフランスに帰ると言い出すのではないかと心配していたが、幸い日本に恋人ができたらしく、その心配はなさそうだ。今夜もデートとのことで、意気揚々と帰っていった。さすが恋愛上手なフランス人、言葉の壁など関係ないらしい。壁もないのに恋人の影も見えない自分とはずいぶん違うと、由井は苦笑した。
 厨房にいる時がいちばん幸せという由井は鳴神と同様、やはり恋愛が長続きしない男だった。なまじ真面目なために仕事と恋人との間で板ばさみになり、苦悩する姿を見かねた恋人の方が去っていくというパターンが多い。
『新は優しいから無理して私を優先させようとしてるけど、無理してるって時点で最初から順位は決まってるよね』
 ある元カノが寂しそうにつぶやいた言葉は、今も胸に苦く残る。
 帰国後、店だけでなく自身まで注目を浴びてしまったため、女性からのアプローチも増えた。しかし、重責を任され、仕事がこの上なく充実している最近は特に、恋愛への興味が薄れている。すくなくともビジュー・トウキョウの経営が落ち着くまでは、その手の話には煩わされたくない。
 そう、思っていたのだが。

 戸締りをし、帰途につく。自分の鼻はもう麻痺しているが、相当うまそうな匂いを漂わせているはずだ。つくづく近くに引越してよかったと思いながら歩いていると、前方に見間違えようのない綺麗な後ろ姿を見つけた。
 朝は会ったことがあるけど、帰りが一緒になるのは初めてだな。
「ルカさん!」
 振り返った彼は、すこし目を見開いた。
「新?」
 あの後、自分のことはそう呼んでもらうようにお願いした。変なタイミングで変なことを言ってしまったと我ながら思う。しかし、宿で聞いた「早くして亡くなった娘」の話が「日本人と結婚した鳴神の母」と同一人物のことだとわかり、かける言葉を見つけられずにいた時にふと「鳴神さんよりルカさんの方が言いやすいな」などと考えていたことを思い出し、つい口に出してしまったのだ。幸いにも許可をもらえ、今ではメールでもルカさんと呼んでいる。
 小走りに追いついて、横に並んだ。
「いま帰りですか?」
「ああ、ちょっと飲み会だった」
 由井は知らないが、この飲み会は「ストレス解消女子忘年会」であった。
「新はずいぶん遅いな。朝も早いみたいなのに」
「これから書き入れ時なんで、仕込みが山ほどあるんですよ。あー、いいなあ飲み会。俺しばらく酒飲めそうにないや」
「……そんないいもんじゃないぞ」
 えらく嫌そうな言い方に、何気なく横に顔を向ける。

 うっ。
 赤い頬に潤んだ瞳。これは……!