The Only Exception (10)


 いま見えているのは暗がりの中の横顔だけなのに、否応なしにあの時の顔を思い出してしまい、由井はあわてた。
 もう一回見たいとは思ったけど実際見たらやばかった、公序良俗的に!
「あっあの、ルカさん、俺変なこと言うかもだけど」
 前置きしてまでも言わずにいられなかった。
「あの、酔ってたりとか熱がある時とかは、あんまり外歩かない方がいいんじゃないかな……」
 いや、酔いはともかく熱がある時は普通外は歩かないんだけどって、そうじゃない、そんなツッコミどうでもいい。ああ、そのとろんとした目できょとんと見ないで、やばいエロい。
「えっと、その、なんていうか。あ、そう、無防備! 無防備な顔になってるから。ほら、最近物騒だからね」
 うん、ナイス言葉選び俺。
 視線を逸らし挙動不審になりながら語る由井の横で、鳴神は顔に手をあてた。
「そうなのか? ……まあ、めったにないことだし」
 いや俺もう二回も見てますけど、と由井はツッコもうとしたが、
「別にこんな顔の時じゃなくても、変な奴はいるからな」
 この台詞でそれを忘れてしまった。
「え?」
「俺が今のマンションに引越したのは、ストーカー被害に遭ったからなんだ」
「ええっ!」
 確かに、随所に防犯カメラが付いていたり共用玄関がオートロックだったりインターホンがカメラ付きだったり鍵がカードキーだったりと、ずいぶんセキュリティのしっかりしたマンションだとは思っていたが。
「ス、ストーカーって、どんな」
「一人は男、一人は女」
「二人も!?」
 開いた口がふさがらずにいる由井に向け、鳴神は淡々と語った。
「男の方は全然知らない奴で、夜道で抱きついてきた時に鞄で張り倒したら消えたんだが」
 ちなみに抱きつかれたのは後ろからだったので、張り倒す前に思いきり相手の足を踏み、ひるんだ顔面に後頭部で頭突きをくらわせるという護身術コンボを決めている。
「女の方が厄介だったんだ。もともと、大学の頃の知り合いが紹介してきてつきあい始めた相手だったんだけど、異常に嫉妬深くて。携帯やパソコンは勝手に見るし、しょっちゅうメールや電話で今どこにいるだの浮気してないかだの確認してくるし、無断で合鍵作って部屋に入って家捜ししてるし」
「う」
「耐えられなくなって別れ話をしたら、立派なストーカーになってしまって。家の前や駅で待ち伏せするわ、毎日メールやら電話やら手紙やら大量によこすわ、会社にまで押しかけてくるわ」
「うわー……」
「番号やアドレスを変えても、引越ししてもどこかから調べて現れるんだ。警察にも通報したし、いろいろ手は尽くしたんだが、俺は自分のことを愛しているのに周囲が反対して別れさせようとしてるんだって信じ込んでて、全然埒が明かなくて。最後は上司の勧めで『別れさせ屋』っていうのを雇って、それでどうにか縁が切れた」
 由井もその業者の話は何かで聞いたことがあった。誰かと誰かを別れさせたい、または誰かと別れたいと思っている人物が雇う探偵のようなもので、様々な工作を駆使して二人を別れさせるように仕向けるのだという。
「それって、どうやって別れさせるんですか」
「いろいろあるみたいだけど、俺の場合は、いわゆる工作員が相手の女のところに新しい恋人として現れるっていう方法だった」
「それでうまくいくんですか?」
「うまくいったよ。こういう依頼も結構多いらしい。説得が通じないような恋愛絡みのストーカーにはこの方法がかなり効くって言ってた。相手にばれないように事を運ぶのが大変らしいけど」
「へえー」
 そうこう話しているうちにマンションまで着いた。エレベーターのボタンを押す鳴神の横に立ち、話を続ける。
「それでやっと平和になったんだが、あの女に知られている場所に住み続ける気にはなれなかったから、改めてここに引越したんだ」
「その後は大丈夫なんですか」
「ああ。ここの住所は必要最低限の人間しか知らないし」
 エレベーターが到着した。
――あのな、新」
「はい?」
 鳴神は何か言いかけたが、
「……いや、なんでもない。もし変な奴を見かけたりしたら、教えてくれ。じゃ、おやすみ」
 と続けて、箱に乗り込んだ。
「わかりました、おやすみなさい」
 閉じる扉を見送りながら由井は、ホラーじみたストーカー行為の恐ろしさに身震いし、また、張り倒されるような真似をしでかさなくて良かったと安堵した。


 部屋に戻った鳴神は、深く息をついた。頬の赤みはもう引いている。
 彼の頬が赤くなったのはもちろん、酒のせいなどではなく、由井に移ったチョコレートの匂いのせいだった。ちなみに酒に関しては、鳴神は「ワク」と呼ばれている。ワク、つまり枠とは「ザル」の網目すらないという意味で、最上級の酒豪に与えられる称号だ。彼は飲酒時に顔が赤くなったことはおろか、酔ったことすらないのだ。彼にとってアルコールは水のような物。今まで不埒な目的で鳴神に酒を勧めてきた者たちは皆、まったく素面と変わらぬ状態の彼に、ほぞを噛んだり返り討ちにあったりしてきたのである。なおこの「返り討ち」とは酒を勧めた側がつぶれてしまうところまでであり、その後鳴神が相手をお持ち帰りして「返り討ち」にしたことは一度もない。念のため。
 今日は最初の時みたいに恐ろしい状態にはならなかった。匂いの源が由井に付いた移り香だけだったし、外だったからだろう。だが、どうも頭がぼんやりしてしまい、特に話すつもりのなかったことまでいろいろとしゃべってしまった。やはりビジューのチョコレートは、他のチョコレートとは違った意味で危険だ。
 由井と知り合って一月半ほど。いろいろな縁が重なり、思いもかけず友人になってしまった今、早く彼に自分の体質について語ってしまった方がいいと思う。しかし、体質とはいえ、彼が真摯に取り組んでいるものを受け入れられないという内容だけに、どうも口が重くなってしまう。それに、ビジューのチョコレートだけは妙な例外だという点もひっかかっている。そうでなければもっと早くに告げていただろうに。
 ……いや、知り合った経緯から考えると、ビジューのチョコレートが例外でなければ、告げる云々以前に由井と親しくなってはいなかったのかもしれない。
 仕事絡みの人脈はそれなりにある鳴神だが、プライベートで友人と呼べるような人間は数えるほどしかいない。ストーカー騒動のおかげで電話番号やメールアドレス、住所などが複数回変わり、事態が事態だけに必要以上の人間にはそのことを伝えなかったため、自然そうなってしまった。仕事が忙しいし、一人で過ごすのが苦になるタイプではなかったのであまり気にしたことはなかったが、仕事の話が絡まない人間とのつきあいは心安らぐものだと、由井と交流を始めてからこちら実感している。
 よもやチョコレートアレルギーの自分が、ショコラティエなどという職業の人間と友好を結ぶことがあるとは思わなかった。同僚に一服盛られたり姑にいじめられたり、この体質のおかげでろくなことがないと思っていたけれど、たまにはいいこともあるものだ。

 ……アレルギー。
 一度、きちんと調べてみるか。

 アレルギーと言ってはいるが、少なくとも鳴神の記憶にある限りでは、それについての検査を受けたことはない。物心ついた時にはもう、母にチョコレートを禁止されていた。実際口にして具合が悪くなったことも何度かあるし、匂いからして駄目なのだから、体が受け付けないことは確かなのだが、例外が現れたことが気になる。こんな症例はあるのだろうか。
 今まで、一度としてまともに味わったことがないチョコレートという食べ物。食べた後どんな状態になるのかという不安はあるが、もし体に悪影響がないというのなら――食べてみたいような気もする。
 また、診断の結果やはりチョコレートはどんな物でも無理だということになっても、それはそれで由井に伝えるきっかけになるだろう。
 鳴神はパソコンに向かい、アレルギー外来のある病院を探し始めた。



 その後、怒涛のクリスマス商戦が終了し、由井の貴重な、大晦日と正月二日という三連休が始まった。
 帰省はしない。実家の家族はビジュー・トウキョウの出店の際に上京してきたので会っているし、何よりさすがに疲れている。この休みはゆっくり過ごしたかった。
 しかしその大晦日、ゆっくり過ごすと言いながら、由井は修業ノートの詰まった箱をひっくり返していた。
「あー、あったあった」
 目当ての物を見つけ、ほくそ笑んだ。鳴神は明日の元旦の夜、実家から戻ると言っていたはずだ。

 ルカさん、きっと驚くぞ。