The Only Exception (11)


 正月2日。年末と元旦を実家で過ごした鳴神は、数日ぶりにいつもの一人の朝を迎えていた。
 少々寝坊し、メールとニュースのチェックをすませてのんびり過ごしていた11時頃。携帯が鳴った。由井だ。
「もしもし」
「ルカさん、あけましておめでとうございます」
「ああ、おめでとう」
「いま暇ですか? ちょっと早いけど昼飯食べに来ませんか」
 同じマンションに友人がいるというのはいいものだ。正月だしと、冷蔵庫の中から白ワインを一本取り出し、片手にぶら下げてエレベーターを降りた。
 ドアが開くと、こんがりとしたうまそうな匂いが漂ってきた。
「ひょっとして、キッシュ・ロレーヌか」
「当たり」
 笑顔を見せた由井だったが、鳴神の持っているワインボトルに気づくと、なぜかうろたえた。
「え、ルカさん、酒持ってきた?」
「悪かったか?」
「い、いや別に……えっと、実家どうでしたか」
「まあ、のんびりしたよ。紅白見たりおせちつまんだり」
 靴を脱ぎながら言うと、由井は、
「おせち?」
 と返してきた。回答する。
「父は何年か前に再婚してるんだ。今度は日本の人と」
「そうなんですか」
 どう反応するか決めかねた、という顔だった。ちょっとおかしい。
「笑い上戸で明るい、いい人だよ。俺が『ゆく年くる年』見ながら年越しそばを音立ててすするのがツボに入るらしくて、毎回笑ってる」
「あーそれ俺も見てみたい」
 調子を取り戻した由井に続いて入ったキッチンのテーブルには、焼きあがったばかりらしいキッシュ・ロレーヌが鎮座していた。由井がにまりと笑う。
「実はこれ、ルカさんのお婆ちゃんのレシピで作ったんですよ」
 ワインのシールをはがす手が止まる。
「教えてもらってたのか」
「おととい発掘しました」
 使い込まれたノートを掲げる由井。鳴神は微笑んだ。
「楽しみだな。ところで、オープナーあるか?」
「あるけど……、ルカさん、やっぱそれ開ける?」
 どうも由井は乗り気でないらしい。明日から仕事だからだろうか。まだ午前中だが。
「嫌なら無理に飲まなくていいぞ、俺が飲むから」
「いやむしろ俺が飲まないと、うっかり張り倒されたくないっていうか、でもそれはそれで危険っていうか……」
「?」
 頑張れ俺とか意味のわからないことをブツブツ言っている由井を尻目に、鳴神はワインの栓を抜いた。グラスに注ぐ。
 由井は優しい男だと思う。貴重なはずの休みの間にレシピを探し出し、思い出の味を再現し、それを自分と共有しようとしてくれている。
 優しい上に料理はできるし真面目だし仕事熱心だしイケメンだし、客観的に見ても相当いい男だと思うのだが、彼女がいる様子はない。もしいるのなら貴重な休みに自分を呼んだりはしないだろう。あれか、俺と同じで仕事が恋人タイプか。
「はい、どうぞ」
 同類だから気が合うんだろうか、などと思いながら、切り分けてもらった一切れをかじった。

 時が、止まる。
 さかのぼる。

「レシピ通りに作ってみたけど、ベーコンがかなりフランスのと違うから、どうかなあ」
「……いや、この味だ」


『日本のベーコンだけは嫌ねえ、薄っぺらくて』


 キッシュ・ロレーヌを作るたびに、笑いながらそう言っていた母。
 ――泣きそうだ。

 祖母の得意料理は、母の得意料理でもあった。
 祖母のレシピで、日本の材料で作るキッシュ・ロレーヌ。それが鳴神の母の味だった。
「すごく、うまい」
 由井は穏やかな顔で、鳴神が黙々と食べるのを見つめていた。



 キッシュをあらかた食べ終わると、由井は「デザートもありますよ」と冷蔵庫に向かった。
「これね、12月から始めた新商品なんです」
 ……新「商品」?
 それは、まさか。
 由井がビジュー・トウキョウのロゴ入りボックスを開けて見せた中身は果たして、小ぶりのチョコレートケーキだった。
「フォンダン・ショコラって言うんだけど、知ってます? 中にガナッシュ、わかりやすく言うと生チョコね、それが入ってて、冷たいままでもしっとりしてるけど、レンジで温めると中がソースみたいにとろけてうまいんですよ。どっちがいい?」
 幸い、冷えているからここまで匂いは来ないけれども。

 鳴神は帰り道に由井と一緒になった日の翌週の土曜日、アレルギー専門医のもとを尋ねた。その際、診察してくれた医者に思いがけないことを言われたのである。
 そして、話を聞いているうちに、ひょっとすると、ビジューのチョコレートなら食べても大丈夫かもしれないと思った。
 しかし、その時に採血して受けた検査の結果はまだ出ていない。
 食べられるのかもしれない。
 ――食べてみたい。
 でも、具合が悪くなってしまったら。
 また、たとえ具合が悪くならなかったとしても、由井の前で「あんな状態」になってしまったら。

 固まったまま無言でいる鳴神に、由井が「ルカさん」と優しい声をかけた。
「リリスで見てて思ったんだけど」

 ぎくり。

「ひょっとして、甘い物はあんまり好きじゃないとか?」
 思わず由井の顔を見る。由井はそれを肯定ととったようだ。
「やっぱり? いや、ルカさん結局プティフールひとつも食べてなかったから、そうなのかなって」
 そして、微笑みながら続けた。
「俺がショコラティエだからって気を遣わなくていいんですよ」

 ……まあ、普通チョコレートが駄目だからだとは思わないだろうが。
「なんか、甘くない物あったかな」
 どう説明するのがいいかを判断しきれなかった鳴神は結局、その勘違いを否定できなかった。箱を冷蔵庫に戻し、別の物を探す由井の後ろ姿に心が痛む。

 検査結果が出たら、必ずきちんと伝えよう。

 そうと決めて気持ちを切り替え、由井が出してきたチーズと、残り4分の1ほどになったワインボトルを見て言った。
「酒ないか? なかったらもう一本持ってくるけど」
「……ビールでよければ」


「あれ」
 ソファで寝息を立てている人がいる。確かに、このソファは寝心地がいい。
 あの後、リビングに移動し、テレビをつけて適当にしゃべったり飲んだりしていた。トイレに行って戻ってきたところ、鳴神が夢の世界に旅立っていたというわけだ。
「ルカさん飲むの早……」
 持ってきたミネラルウォーターの蓋を開け、ソファを背もたれに床に座り込んでごくごくと飲んだ。由井も酒に弱い方ではないが、短時間で量を摂取しすぎた。すこし頭がぼーっとしている。
 リリスで飲んだワインは白と赤をグラスで一杯ずつだけだった。「せっかく来たので本当はボトルを頼みたいところだが、明日も仕事だし、今日はデュシャンに会うのが目的だから美味い酒を飲みすぎて酔っ払うわけにはいかないので」と、グラスワインの中から何か選んでくれるように鳴神がソムリエに頼んでくれたのだ。ソムリエの気持ちに配慮した言い方に感心し、由井の懐を気遣ってくれたことに感謝したものである。
 まあそういうわけで、少なくともワインをグラス二杯くらいならあの顔にはならないと考え、ボトルの3分の2くらい自分が飲めば大丈夫だろうと踏んでいた。しかし鳴神のペースの早いこと。結局、ワインは二人で半分ずつくらいだっただろうか。その後由井が缶ビールを一本飲む間に、彼は三本空けて寝てしまったのだが、少なくともこの寝顔はまっさら、酔っている気配すらない。あの「ちょっと飲み会」の時はいったいどれだけ飲んでたんだこの人。
 でも、本当に綺麗な人だなあ。寝顔まで綺麗だ。
 鳴神には悪いが、ストーカーになってしまう気持ちもわかる気がする。特にさっき、キッシュ・ロレーヌを楽しみだと言った笑顔。あれはやばかった。いつもクールであまり表情を変えないくせに、たまにああいう顔をするのは反則だ。
 まあ、初対面の時のあの顔の方がやばさの度合いは桁違いなわけだが。
「……いやいやいや」
 目の前で彼が無防備に寝ているのに、それを思い出すのは精神衛生上よろしくない。
 由井は寝顔から視線を外し、また水を飲んだ。

 キッシュ、喜んでもらえたみたいでよかった。ずっと黙々と食べてたけど、よっぽど懐かしかったのかな。
 甘い物が苦手なのは、ああは言ったもののやっぱり残念だ。でも、ソルベの皿はきれいに食べてたから全然だめってわけでもないんだろうけど。

 ……しかしルカさんよく寝てるな。
 それだけ信頼されてるってことかな。

 思い返せば、一度店に来ただけの客の後をつけ(これは鳴神は知らないが)、声をかけて食事に誘い、さらには同じマンションに引越してくるなんて、自分の行動は客観的に見て相当怪しい。変な下心があってやったことではないけれど、過去に男のストーカーもいたというなら、警戒されてもおかしくないだろうに。
 実は、由井は過去に一度だけ、男とつきあったことがある。相手はフランスでの修業時代に通っていた語学学校の事務員だった。「仕事に一途な君が好きだ」と熱烈にアタックされ、ついにほだされて交際を開始したところ、一ヶ月も経たないうちに「仕事ばかりしている君が嫌いだ」と一方的に別れを告げられてしまったという、正直なかったことにしたい経験である。
 あの時、二度と男なんぞとつきあうものかと強く思ったものだが。

 しばらくぼんやりとテレビを眺めていた由井だったが、画面の中で正月らしく、有名パティスリーの豪華スイーツを賭けたゲームが始まったのをきっかけに立ち上がった。
「あれ食べよう」
 キッシュだけじゃちょっと物足りなかった。ルカさんが食べないなら、俺が全部食べればいいや。
 由井は立ち上がり、キッチンに向かうと、冷蔵庫から取り出した物を電子レンジで温め始めた。


「……?」
 ゆるゆると目が覚めた。
 ひどく喉が渇く。
 身体が熱い。

 この、匂い。
 ――まさか。

「あ、ルカさん、起きた?」
 身じろぎした鳴神に気づいて、ソファの下に座り込んでいた由井は、温められて中身のとろけ出した、豊かに香り立つフォンダン・ショコラを乗せた皿を持ったまま振り向いた。
「あの、これ、甘そうに見えるけど、カカオの苦味も効かせてあるから意外と甘い物がだめな人でも……って、えっ!?」

 時間差攻撃!?