がっちり、至近距離で目が合った。
身体の感覚が鈍い。動けない。
嗅覚ばかりが冴えるように、脳の隅々にまで蠱惑的な香りを送り込んでくる。
思考が覚めないまま、麻痺していく。
やばい。
ものすごく。
「……欲しい」
何が?
チョコレート?
それとも?
衝撃を受けていたところへの、さらなる追い撃ちだった。
――なんだ、それ。
その顔で、その台詞って。
「ルカ、さん」
蝶が花に引き寄せられるように、由井はさらにその距離を詰めた。
ああ、駄目だ。
これ以上、近づかれたら、もう――
突如、響いた電子音。びくりとする二人。
我に返った由井が、あわててすこし身を引く。
「あの……、どうぞ」
音の正体は、鳴神のシャツの胸ポケットに入った携帯電話だった。
一方、鳴神はまだぼんやりしていたが、促されてのろのろと、やかましく鳴り続ける電話を取り出した。
――室長?
「……はい、鳴神です」
「え!?」
音がする勢いで跳ね起きた鳴神に、由井も目を見張る。
「はい、はい……、それで」
怪我だの病院だのと不穏な単語の混じる会話を交わした後、鳴神は電話を切った。
「何があったんですか」
「同僚が、高速で事故に巻き込まれたって」
「ええっ! 大丈夫なんですか?」
「とりあえず命は無事で、病院に運ばれたそうだが、けっこう台数が多かったらしくて、詳しい状況はまだわからない。年明けからの仕事のこともあるから、今から病院に行って室長と落ち合うことになった」
「同僚って、ひょっとして、ルカさんの相方の姑さん?」
「そう」
鳴神は守口のことを「姑みたいな女性」と話していた。おかげで由井の頭の中では、守口は秘書なのに着物を着た怖いオバサンの姿でイメージされている。姑と言われて美女を思い浮かべるほど、彼は突飛な想像力の持ち主ではない。
「ばたばたしてすまない。今日はありがとう、ごちそうさま」
「はい、ルカさんも気をつけて」
さっきまでの表情は微塵も残さずに慌しく去っていく鳴神を、由井は複雑な思いで見送った。
……俺も、出かけよう。
今この部屋に一人でいたら、自分は間違いなく、怪我人に対する嫉妬を止められない醜い人間になってしまう。
朝。机に突っ伏している鳴神の横に、そっと置かれたコンビニの袋。
「ありがとうございます……」
「やつれた鳴神さんも退廃的な感じで素敵ですけどね」
苦笑する佐藤。村田にちゃん付けで呼ばれている彼女だが、実は勤続20年になるベテランである。袋の中身はサンドイッチと野菜ジュースとミネラルウォーター、+栄養ドリンク剤。さすが、気配りが行き届いている。
守口は、彼氏である関の実家に新年の挨拶に行き、その帰り道で玉突き事故に巻き込まれてしまったのだった。幸い二人とも命に別状はなかったが、関は打撲で全治一週間、守口は鎖骨を骨折しており全治一ヶ月と診断された。
鳴神は2日に病院で村田と落ち合って状況を確認、3日には守口の病室で今後の打ち合わせをし、休み明けの4日からこの三週間ばかり、休日返上でフル稼働している。なまじ守口が有能であるために欠けた穴は大きく、そのしわ寄せが現在彼のまとっているデカダンな雰囲気を作りあげていた。
「守口さん、明日には戻ってくるそうです」
「あら、ずいぶん早いみたいだけど大丈夫なのかしら」
「本人は一日も早く出たいみたいですよ」
「彼女、責任感強いものね。無理して治りが遅くならないといいけど」
伊藤と佐藤の会話を聞きながらドリンク剤の蓋を開けていると、今朝の新聞を新聞掛けに整理していた伊藤が広告の一つに目を留め、声を上げた。
「あー、今日から『ガラ・デュ・ショコラ』始まるんだった!」
「ガラ?」
鳴神の反応に、佐藤が答える。
「毎年この時期に、伊勢屋百貨店でやってるイベントですよ。チョコレート屋さんの見本市みたいな、あれでしょ? 伊藤さん」
「そうです。日本のショコラトリーはもちろん、日本に出店してないヨーロッパのお店なんかもいっぱい来てて、もうチョコレート好きには天国みたいなイベントなんですよ」
そういえば、由井がそんな話をしていた。
「毎年守口さんと一緒に行ってたんですよね、本命チョコ探しに。忙しかったからすっかり忘れてた」
鳴神の負担を減らすため、彼以外でもできる仕事は村田が各人に割り振っており、秘書室所属の者たちは受付といえども仕事量が増えている状態だった。
「すごい人出だし、守口さんは行くの無理だろうな。彼女、必ず鳴神さんの分も買ってたんですよ。今年はもらえないかもしれませんね」
あの、毎度無駄に高そうだったチョコレートの出所はそこか。
「それで結構……」
ドリンク剤を飲み干す。
「チョコレートの祭典」か。由井は頑張っているだろうか。
検査の結果が出たのに、まだ報告できずにいる。
「んー……、いいね」
ルブランの言葉を待つ。
「カカオが十分に力強いのに、白ワインのさわやかな香りも際立ってる。両方を生かしあって、絶妙なマリアージュだ。これならオーナーのお眼鏡にもかなうんじゃないかな」
「そう思う?」
疲れを隠しきれない由井の顔に、しかし笑顔がこぼれた。
バレンタイン用のボンボン・ショコラ詰め合わせ。本当はもうラインナップは決まっていたが、どうしてもこの新作を入れたくて無理を言った。毎日の仕事をこなした後、深夜、時には早朝まで試行錯誤して仕上げたこの一品は、今日から始まるガラ・デュ・ショコラのため来日中のビジュー二代目オーナー、フランツ・ドゥモリエの試食を経て許可が出れば、日本限定のフレーバーとして発売できることになっている。
「これ、名前決めてる?」
「う……ん? まあ、一応」
ルブランがにやりと笑う。
「わかったよ、アラタ。恋人の名前なんだろ」
「っ、なんで!」
頬を染める由井にルブランは当然のように言った。
「この忙しいのに寝る間を惜しんでバレンタイン用の新作を作るなんて、恋人に捧げるとしか思えないじゃないか。いいな恋は!」
「いや、その、まだ告白もしてないし」
「ますますいいじゃないか、それでこれだけの作品を創り出す力が与えられるんだ。やっぱり恋は素晴らしいな! 応援するよ、頑張れ!」
ばんばんと音が鳴るほど背中を叩かれ、由井は小声で「ありがとう……」と礼を言った。
「あ、そうか。これOK出たら『アラタ』と一緒に箱詰めされるんだね!」
「だからあれは『ジャポン』だってば……」
「Japon(日本)」は由井が作った日本酒入りのボンボン・ショコラである。初めて商品として店に出すことを認めてもらった思い出の品で、今度のバレンタイン用詰め合わせに入れることが決まっていた。ルブランはショコラに人の名前を付けたがる傾向があり、名前を決める際「アラタ」にしなよとさんざん由井を口説いたのだが、店で「アラタ下さい」と言われるのに耐えられそうになかった由井が固辞したのだった。
「あ」
やっぱり、別の名前考えなきゃ。「ルカ下さい」と言われるのはもっと嫌だ。
あの日。外出した由井は正月の初売りを始めていたデパートを覗き、地階にあった酒類のコーナーで、鳴神が持ってきた物と同じ銘柄のワインと出会った。そこで新作のインスピレーションを得た彼は、ワインを購入したその足でビジュー・トウキョウの厨房に直行し、試作を始めてしまったのだ。
香り高くすっきりとした辛口の白は、アルザス産というところも鳴神を強くイメージさせた。どういった種類のチョコレートと組み合わせるか迷ったが、最終的には辛党の彼に合わせ、高カカオのチョコレートを選んで甘さを極限まで切り詰める形にした。おかげで今までの由井のレパートリーにはなかった味わいを出すことができた。
彼に想いを馳せながら新しい作品を作りあげていく時間は、とても苦しくて、とても幸せだった。
そう、間違いなく、由井は鳴神に恋をしていた。綺麗でクールで仕事ができて、あまり感情を見せないけど本当は親切で、自覚はないらしいが時々ものすごくエロい顔をして彼の心をかき乱す鳴神に。酒には強いらしく酔うまで時間がかかるみたいだとはいえ、もう外では飲んでほしくないとすら思ってしまう。今までいったい何人の人間があの顔を見たのかと考えると、嫉妬で胸が焦げそうだ。
性別に対する戸惑いはない。たった一時とはいえ、男性と交際した経験はそれを簡単にねじ伏せていた。忘れたいと思っていた経験だったが、いま由井はあの事務員に感謝すらしている。あの男が壁を崩しておいてくれなかったら、こんなにすぐに自分の恋心を認められたかどうか。
実はあの日以来、由井は鳴神と顔を合わせていない。いや、顔どころか、事故の影響で忙しくなるだろうという話以降、メールも途切れていた。こちらも同じく忙しく、連絡をする余裕もなかったが、気持ちを自覚した今、とても寂しく、心配だった。体を壊していないといいけど。
試行錯誤を繰り返し、やっと完成したこの味。
オーナーに認められるか否かに関わらず、今夜はこれを持って、鳴神の部屋を訪ねるつもりでいた。
ルカさんにこのチョコレートを渡して、好きだと告白しよう。もし駄目でも、その時はその時。
連日の作業で疲れてはいたが、由井の思いきりのいい精神は健在だった。
明日からまた十日ほどヨーロッパに出張である。準備のため定時に上がった鳴神は、夕食と入浴を済ませた後荷物をまとめ終え、久々に部屋でくつろいでいた。
初日を無事終えたというガラ・デュ・ショコラ。鳴神が縁遠かっただけでかなり有名なイベントらしく、テレビのニュースでもやっていた。ネットで公式サイトを開き、ビジューの名を見つけて顔がほころぶ。来日している本店のオーナーショコラティエのことしか記載されていないが、きっと由井も忙しくしているだろう。体を壊していないといいけど。
「……」
あの日のことを思い出すと、いたたまれない気持ちになる。また由井の前であの状態になってしまうとは。しかも最初の時とは違い、けして予測不可能な事態ではなかった。鳴神がチョコレートを食べないからといって、由井まで食べずにいる道理はなかったのだ。さっさと自分の部屋に帰ればよかったものを、居心地のよさについ長居したばかりか、うたた寝までしてしまったのだから、完全にこちらの落ち度である。あの時電話が入らなかったら、果たしてどうなっていたことか。ひょっとすると、二度と由井に顔向けできない真似をしでかしていたかもしれない。
でも、匂いだけであんなになってしまうんだったら、もし口にしたら、いったい――
ふと、来客を知らせるチャイムが鳴った。
こんな時間に、誰だ。