The Only Exception (13)


 カメラに映っていたのは意外な人物だった。二言三言言葉を交わす。共用玄関のロックを外し、上着を着て、ドアの外で待った。
 エレベーターが到着する気配。
 ほどなくして鳴神の前に現れたのは、彼の相方にして水も滴るいい女、守口香蓮だった。事故の翌日に病室で会った時には顔色も悪く、あちこち絆創膏や湿布が施された痛々しい姿だったが、今はもう一見してわかるような傷はない。すこし痩せたように見えるものの、その姿勢の良さには磨きがかかっている気がする。
「どうしたんだ? 珍しいな」
 守口はここの住所を知っている数少ない人間のうちの一人ではあったが、彼女がこの部屋を訪ねてくるなど、珍しいどころか初めてのことだった。
「あなた明日から出張でしょう? 今日のうちにお礼を言っておこうと思って」
 守口はしっかりと鳴神の目を見て、続けた。
「私の分の仕事、やっててくれたでしょう。どうもありがとう。助かったわ」
「怪我はもう大丈夫なのか」
「ええ。固定用バンドを着けていればほとんど痛まないし、経過も順調よ」
 今はコート姿でわからないが、服の下にそのバンドとやらを着けているのだろう。姿勢がいいのはそのせいか。
「今日は和弘さんに車で連れてきてもらったけど、明日からは電車で通うつもり」
「関君の方は、具合は」
「彼は大丈夫。早々に復帰してるわ」
 和弘は関の下の名前である。今回の事故に絡み、鳴神は彼とも何度か言葉を交わす機会があったが、第一印象の通り温厚で、包容力のありそうな男性だった。同じ事故に遭いながら彼と守口との怪我の状況に差が出たのは、衝撃吸収材つまりいわゆる皮下脂肪の量の違いによるものではないかと思われる。
「ここに来る前に、会社の方にも顔を出してきたの」
 美しい顔に、苦い笑みが刷かれる。
「……あれもこれも完璧に仕上げてくれちゃって。本当は、私なんか必要ないんじゃないかと思うわ」
「いや、お前は絶対に必要な人間だ」
 間髪いれぬ返答に、守口は驚いた様子で下がり気味だった視線を戻した。
「いない間、本気で死ぬかと思った。戻ってきてくれてうれしい」
 鳴神がいくら仕事が好きだといっても、本当に洒落にならないオーバーワークだったのである。毎日社長の随伴をするので、込み入った調査や文書作成などは通常の勤務時間終了後から本腰を入れることになってしまうし、今まで守口に任せていた分野には勝手がわからないものも多々ある。しかも新年会シーズンで、しばしば時間外に社長のお供をしなければならない。そちらは時々村田が代わってくれたが、それでも一時は本気で過労死するかと思った。
――すごい殺し文句」
 守口は、鳴神が初めて見る、はにかんだような顔で微笑んだ。
「まさかそこまで言ってもらえるとは思わなかった。ありがとう、すごくうれしい」
 おそらく、関には遠慮なくこの笑顔を見せているのだろうと鳴神は思った。


 ところで。
 エレベーターホールの壁際、鳴神の部屋の玄関からは死角になる位置で固まっている男がいた。由井である。
 帰る途中に鳴神に電話しようとしたが、携帯の電源が落ちてしまっていた。忙しさにかまけて充電を怠っていたせいだ。幸先が悪いと思いつつも、はやる気持ちは抑えられず、直接部屋を訪ねてみることにした。
 エレベーターが来るのも待ちきれなくて、脇にある階段で五階まで上がってきたところ、鳴神が玄関先で誰かと話をしている場面に遭遇した。その相手と、途中からではあるが聞いてしまったその内容とは、由井を驚愕させるのに十分だった。


「お礼に、今年のバレンタインから、チョコレートをあげるのを止めることにするわ」
 意外な申し出に、鳴神は心から謝意を表した。
「それはありがたいな。毎年食べられない物をもらっても困るんだ」
「まったく、めんどくさい体質ねえ。代わりは何にしようかしら」
「別に無理して何かくれなくても構わないんだが……」
「社会人女子としてはそういうわけにもいかないの。何か、新しい物を考えなくちゃ」
 つまり、何か新しい嫌がらせを考えるということだろう。
 果たして、守口は鳴神のよく見慣れた方の笑顔で言った。
「遥さん、あなたチョコレート以外のアレルギーはないのかしら?」
 復活したようで何より。



 由井はふらふらと階段を降りて自分の部屋に戻り、中に入ると、靴も脱がず、そのまま玄関ドアの内側にもたれて座り込んだ。

 『絶対に必要』
 『死ぬかと思った』
 『戻ってきてくれてうれしい』

 『ありがとう』

 考えるまでもない。あの二人はつい先ほど、復縁したのだ。

 ルカさんに恋人がいるなんて思わなかった。そんな話は聞いていなかったし、気配もなかった。
 でも、別れていたというのなら辻褄が合う。そういう話はあまりしたくないだろう。
 だいたい、あんないい男を世の女性が放っておくはずがなかったんだ。
 ここの住所も知ってるくらいの相手で、ルカさんに負けず劣らずの美人で。
 しかも「女」。
 万に一つも勝ち目はない。
 それに、彼女のことで、死ぬかと思うほど思いつめていたらしいのに、何も相談してくれなかったんだから。
 結局、ルカさんにとって俺なんてその程度ってことだ。
 信頼されてるかもなんて自惚れて、馬鹿みたいだ。

 ――でも。振られただけなら、立ち直る自信もあったんだ。
「チョコレートアレルギー、なんて」
 俺の生涯をかけると決めた道、俺の人生を、ルカさんはまったく受けつけないってことじゃないか。

 彼が大切に運んできた手の中の小箱は、きつく握り締められて、すっかり形が変わってしまっていた。



 守口を関の車まで送って戻ってきた鳴神は、明日の出立に備え、早々にベッドに横になった。
 エレベーターホールで、かすかにあの香りがしたような気がしたが、気のせいだったろうか。チョコレートの話なんかしたからか。
「……ビジューのなら」
 チョコレートでもよかったけど。
 そんなことを思いつつ、連日の疲労に促され、いくらもしないうちに眠りに落ちていった。