The Only Exception (15)


 非常に気疲れしたディナーを終え、ホテルの部屋に落ち着いた鳴神は、久しぶりに由井にメールを書いていた。

『鳴神君』
 別れ際、石倉に声をかけられた。
『今日は、デュシャンにも動じなかった君の珍しい表情をたくさん見られて満足よ』
『楽しんでいただけたようで何よりです』
『あはは! まったく、食えない子ね』
 笑いながら指で招く。背をかがめると、彼女は鳴神の肩を抱き込み、声を潜めて言った。
『君、由井君のこと知ってるんじゃない?』
『……どうしてそう思われますか』
『今日はアラタとしか呼んでないのに、誰のことかわかったみたいね』
 しまった。
 石倉の笑みが深くなる。まったく、食えないのはどっちだ。
『まあ、女の勘よ。知り合いじゃなかったら、あの時、あそこまで態度に出なかったんじゃないかと思って』
――彼は、ちょっとした知人です。会長への手土産を購入したのがきっかけで知り合いました』
『ふうん。ちょっとした、ねえ』
 その時、化粧直しにやたら時間のかかっていたリシェールが奥から出てきて、二人を見て騒いだ。
『あー内緒話なんかして! やーらしー!』
『シリルには黙っておいてあげる』
 石倉は最後にそう言って、鳴神を解放した。
『じゃあ、またね。次の機会を楽しみにしてるわ』

 何か、無性に彼に会いたいと思った。



 ルカさんからメールが来ていた。
 あの日の翌日からまた出張だったらしい。俺が超超超苦手だったあのデザイナーの人と、パリで一緒に食事したとある。しかもあの人、ムッシュ・デュシャンのいとこなんだって。マジすか。
 帰ったら会おうと書いてあった。

 ……ちょっと、まだ、きついな。

 出勤してきたルブランは、ロッカールームで携帯をぼんやり見つめる由井を見つけた。
「オハヨーゴザイマス。どうしたの、アラタ」
「ん、や、なんでも」
「なんでもって顔じゃないね。例の彼女からメールでも来た?」
「……」
 ルブランがため息をつく。
「そんなに未練があるなら奪っちゃえばいいのに」
「できないよ、そんなこと」
「まあ奪っちゃうは言いすぎだとしても、一度ちゃんと告白した方がいいんじゃない? 何も言わずに帰ってきちゃったからひきずってるんだよ。ちゃんと告白して、今の男とどっちがいいか彼女に選んでもらえばいいじゃないか。そりゃ、彼女がアレルギーだったってのはハンデかもしれないけど、それがあったって僕はアラタが選ばれると思うけどな。アラタいい男だし」
「……ありがとう」
 でも、それはないよ。「今の女」と比べて、「彼」が俺を選ぶなんて。



 予定通り出張を終えた鳴神は、街頭の明かりの中、スーツケースを引き、白い息を吐きながらマンションに戻った。由井の部屋の照明を確認する。点いていない。
 先日由井に送ったメールはまだ返信が来ていなかった。確かにしばらくやり取りしていなかったけれども、彼は送ればわりとすぐに返信してくるタイプだったので、気になっていた。来週はいよいよバレンタインデーだが、追い込みで相当忙しいのだろうか。
 早く会いたい。自分の体質について話してしまいたい。
 それから、ひとつ、頼みごとをしようと思っていた。彼に何かおすすめのチョコレートを選んできてもらうのだ。
 「チョコレート中毒者」である石倉やリシェールの話を聞いていたら、ビジューのチョコレートを食べてみたいという欲求に、ついに勝てなくなってしまった。食べればおそらく「ああいう状態」になるだろうが、食べ過ぎなければ具合が悪くなることはないだろうと踏んでいる。明日は久々に休みをもらえたから、他人に迷惑をかけないように、一人で試してみるつもりだった。しかし自分で店に買いに行くことはできないため、申し訳ないが由井に頼んで持ってきてもらおうというのである。
 いま何時だ。
「9時か」
 電話、してみるか。


『……もしもし』
「もしもし、鳴神だけど」
『はい』
「久しぶりだな。今日出張から戻って、さっき部屋に着いたんだ」
『お帰りなさい』
 えらく声が硬い感じだ。疲れているのだろうか。
「まだ店にいるのか?」
『はい』
「忙しいところにすまない。ちょっと会って話したいことがあるんだけど」
――なんの話ですか』
「長くなりそうだから、会って話したいんだ。仕事が終わったら、俺の部屋に寄ってくれないか」
『……わかりました』
「それと、悪いんだが、新のおすすめのチョコレートをいくつか見つくろってきてくれないかな。代金は払うから」
 由井は、沈黙した。
 鳴神が変だと感じ始めた頃。再び、硬い声が聞こえた。
『誰にあげるの』
「いや、俺が食べるつもりだけど」
――アレルギーなのに?』


「どうして、それを?」
 ようやっとその一言を口に出した鳴神に、由井は一気に言った。
『ごめんなさい、俺、今日はやっぱり徹夜になりそうです。バレンタインデーまでずっとこんな感じなんで、バレンタインが終わって落ち着いたら、俺から連絡します。それでいいですか』
「あ、ああ」
『それじゃ、おやすみなさい』
「……おやすみ」
 勢いに押し切られる形で、通話は終了した。


 由井は電話を切ると、連日売れに売れているバレンタイン用の新作「アルザス」に仕上げのチョコレートをコーティングする作業に戻った。
 一口サイズの長方形にカットされた白ワイン風味のガナッシュを、溶かしたチョコレートに浸し、ショコラフォークですくっては取り出し、台の上に並べ、表面にひとすじ模様を付ける。一連の作業を、彼はほぼ機械的にこなしていく。

 ――彼女がチョコレートアレルギーの恋人にチョコレートを贈り続けた理由は何か。
 おそらく、自分で食べるためだ。男性に贈られたはずのチョコレートがなぜか女性の胃袋の方に多く収まる、そういう話はよく聞く。
 その彼女が、お礼に今年から別の物を贈ると言っていた(彼女に何か非があって別れていたんだろう)。
 ならば、チョコレート好きな彼女のために、彼はどうするか。
 バレンタインデーは男性が女性にプレゼントを贈る日、という欧米の習慣に親しんでいるだろう彼なら、いわゆる「逆チョコ」も抵抗なくこなすに違いない。

 ごめん、ルカさん。
 心の狭い「友人」でごめんなさい。
 でも、それだけは。
 俺のチョコレートを、あなたが彼女に贈るなんて、それだけは。

 会って話したいことって、きっと、彼女と元鞘に収まりましたって報告だよね。
 ちゃんと話すまで、彼女のことは内緒にしておきたかったのかな。
 ……それにしたって、「自分で食べる」なんて嘘はついてほしくなかったな。

 アレルギーのこと、もっと早く言ってくれればよかったのに。
 言いにくかったんだろうな。俺、ショコラティエだし。
 でも、ほんとに、遠慮なんかしなくてよかったのに。
 できれば、あなたを好きになる前に知りたかった。
 それなら、あるいは――、いや。


 それでも、好きにはなってしまっただろうけど。


 俺が、元通りあなたと話せるようになるまで。
 もうすこし、時間をください。

 こんな気持ちでバレンタイン用のチョコレートを作るのは、とても申し訳ないけれど。
 せめて、このチョコレートを買っていく人たちの恋は、うまくいきますように。



「おはようございます」
 休み明けで元通りになっているとばかり思っていた部下の顔色が悪化していて、村田は眉をひそめた。
「鳴神、なんだその顔は。ちゃんと休んだの?」
「はあ、一応」
 気の抜けたような返事をし、ぼんやりと席に着く。いつも彼がまとっている冴えた雰囲気はまったく感じられない。
 村田は、同じく異変に気づいた佐藤と顔を見合わせた。
 何があったんだ。


 仕事の予定を確認しながらも、心はつい、他に向かってしまう。
 あの電話。いつもの彼からは考えられないような、愛想のない、冷たい口調だった。忙しくて疲れているのだろう。と、思う。思いたい。しかし。
 由井はどこでアレルギーの話を聞いたんだろう。自分は図らずも社内では有名人だし、この時期ビジューに行く女性社員も多いだろうから、そこからか?
 なんにせよ、鳴神の意図しない形で、彼が不完全な情報を知ってしまったことは確かだ。

 ――俺は、新を傷つけてしまったのか?

 そう思うと、ひどく心が痛んだ。教えるのが遅くなったことを謝り、早く本当のところを伝えたい。しかし、忙しいから待ってくれと言われた手前、また電話やメールをするのもはばかられる。

 ……バレンタインデーが終わるまで、待つか。

 長い一週間になりそうだった。